卓話
2026年03月
卓話『世界を魅了する歌舞伎』2026年3月9日
松竹株式会社エグゼクティブフェロー 岡崎 哲也様
歌舞伎座の創立は明治22年です。それ以前の江戸時代には、歌舞伎は主に日本橋や銀座周辺の「江戸三座」で上演されていました。天保の改革でこれらが浅草猿若町へ移転・集約された後、明治以降に現在の銀座の地へ戻り、歌舞伎座が誕生しました。
江戸で一番古い劇場は、西暦1624年に初代中村勘三郎が京橋に建てた中村座です。中村勘三郎は出雲阿国の一座にもいたと言われている傑物で、三枚目道化方、コミカルな役を得意としていました。亡くなった十八代目勘三郎さんが勘九郎時代から、なんとか同じことをやりたいということで、かつて江戸三座があった浅草に仮設で建てたのが平成中村座です。明治に入り、劇場が中央区に移ったのは大変な文明開化で、お客様にたくさんお越しいただいています。
明治12年、第18代アメリカ合衆国大統領グラント将軍が大統領退任後に世界周遊旅行で日本を訪れた際に、グラント将軍の芝居を行いました。作家は河竹黙阿弥、当時ナンバーワンスターの九代目市川團十郎が主演で、これが記録では外国の来賓が初めて歌舞伎に触れた時と言われています。
その後初代総理大臣である伊藤博文を筆頭に、明治政府による演劇改良会が発足しました。そして初代歌舞伎座の社長となる福地源一郎らが動き、九代目團十郎も引き込んで、明治20年に井上馨邸(いまの国際文化会館)で、天皇皇后両陛下が歌舞伎を生でご覧になるという史上初の天覧歌舞伎がありました。これで一挙に勢いがつき、歌舞伎は日本の 国劇になりました。そして明治22年11月22日に、現在の場所に第一代の歌舞伎座が誕生しました。
明治の終わり、ルネサンス様式・ヨーロッパのオペラ座式の場内、オーケストラピットもある帝国劇場ができたことは大きな転換点で、ここで初めて女優さんの養成所ができました。1629年に風紀の乱れから、女性は人前でパフォーマンスをしてはいけないという法律ができ、明治5年頃まで女性のエンターテイナーはいませんでした。この帝国劇場では歌舞伎も上演されていましたが、世界的なクラシック音楽やバレエなども行われていました。瀕死の白鳥を得意としていたアンナ・パブロワはロシアバレエ団のトップバレリーナで、大正11年に帝国劇場に出演した折には、当時の名優六代目菊五郎が市村座へ呼んで歌舞伎の衣裳を着せたり、自宅のお茶室でお茶を点てたりしています。また関東大震災の年の春には世界的なバイオリニスト、クライスラーが来日し、帝国劇場でリサイタルを開催しました。このように世界的に有名な方が帝国劇場を訪れた際に歌舞伎座に寄って芝居を観るようになり、海外での歌舞伎の地位を少しずつ確立していったのだと思います。
初めて海外で公演を行ったのは昭和3年のソビエト国際演劇音楽祭で、当時最高の名優、現代劇もできる天才であった二代目市川左団次がソビエトに行きました。歌舞伎の見得から映画のストップモーション、クローズアップの手法を編み出したと言われている映画監督エイゼンシュタインや、当時現代劇の神様と言われたスタニスラフスキーとも念願の対面を果たしました。
昭和7年にはチャップリンが来日し、六代目菊五郎、初代吉右衛門の仮名手本忠臣蔵を観ています。五・十五事件が起きた日にチャップリンは首相官邸へ行くはずたったそうですが延期となり、もし一緒にいたら撃たれていたと言われています。チャップリンは昭和11年にも新婚旅行で奥様と歌舞伎座を訪れました。同じ年にフランスのジャン・コクトーが六代目菊五郎の春興鏡獅子を観て、美女と野獣の演出のヒントを得たと言われています。当時イギリスの大使であったのちの吉田総理が、友好親善を目論み菊五郎を呼ぶための宣伝として24分間撮ったものが春興鏡獅子で、ロンドンの映画館で流してその3か月後に菊五郎を呼ぼうとしていたのですが、残念ながら戦争が激しくなって叶いませんでした。その後孫にあたる勘三郎が平成2年の勘九郎時代にロンドンで春興鏡獅子を踊り、六代目菊五郎の念願を果たしました。
昭和14年には二代目猿之助が、黒塚という長唄の舞踊を踊りました。これはロシアバレエの手が入っており、いわゆるヨーロッパのバレエの振り付けが歌舞伎に入った第一号です。
昭和20年5月の空襲で歌舞伎座が消失し、昭和24年にようやく地鎮祭ができ、26年のお正月に完成しました。ここから本当に戦後の外国の皆様とのお付き合いが始まります。昭和20年以降数年はなかなか行き来ができませんでしたが、昭和30年代に入って経済が良くなってきて、昭和34年にはヘルベルト・フォン・カラヤン夫妻がウィーンフィルと一緒に歌舞伎座に来られました。
その後アメリカへ初めて歌舞伎公演に行ったのが昭和35年です。ブロードウェイの小さな劇場で勧進帳などをやったところ、歌舞伎はオペラに通じるものがある、日本人のスピリットだということで大人気となり、この公演がロサンゼルス、サンフランシスコで大入りとなりました。のちにモナコ公国の公妃となるグレース・ケリーは歌右衛門さんの京鹿子娘道成寺に一目ぼれをし、その後2度国賓として日本に来た際に国立劇場へ足を運んでいます。モナコで茶道を習い、正座の稽古をして、楽屋では歌右衛門さんのお化粧をずっと正座で見ていたそうです。
昭和44年にアメリカで熊谷陣屋の源平合戦の絵巻という悲しいお話をやったところ、これがヒッピー全盛のアメリカでベトナム反戦の平和劇と話題になり、ニューヨークタイムズのアート欄のトップにイラスト入りで取り上げていただきました。このあたりから歌舞伎は外国のお客様に演劇として深く観ていただけるようになりました。それ以降も昭和54年の中国公演、昭和57年のアメリカ公演、昭和62年のソビエト公演など、様々な国で公演させていただく中で、たくさんのご縁にも恵まれました。作曲家レナード・バーンスタイン、ピアニストのウラディミール・ホロヴィッツ、オリンピック金メダリストのカール・ルイス、そしてバレエの振付師モーリス・ベジャールとバレエダンサーのジョルジュ・ドン。モーリス・ベジャールが仮名手本忠臣蔵を題材として振り付けた「ザ・カブキ」は、和の魂を持つバレエとして、初演から40年経った今も東京バレエ団で世界中の観客を魅了し続けています。
このように世界と深く関わり合いながら、歌舞伎は平成17年に世界無形文化遺産に登録していただきました。
ご清聴ありがとうございました。
卓話『リトアニアを紐解く文化・政策・未来への挑戦』2026年3月2日
在日リトアニア共和国特命全権大使 オーレリウス・ジーカス様
リトアニアはバルト三国の中で一番大きな国です。面積は日本の北海道に相当しますが、人口はわずか270万人とかなり小国です。リトアニア語はほぼ仲間のない言葉で、唯一の仲間はラトビア語ですが、お互いに全く通じません。日本ではバルト三国をひとつと見ることが多いですが、エストニア、ラトビア、リトアニアはそれぞれ言葉も歴史も文化もアイデンティティも違う国です。
バルト海に面しているため海がとても綺麗に見え、全世界の琥珀の9割はバルト海で採れていて、リトアニアは琥珀の国と言われています。またクルシュー砂丘は世界遺産に登録されているほか、非常に緑も多く、国土の3割を森林が占めています。森林が多いというだけではなく、ベリーやきのこが採れ、日常生活でも非常に重要な役割を果たしています。さらに綺麗な湖が数多くあり、森と湖の国とも言われています。しかし残念なことに景色を眺めることができる山がなく、その代わりに気球に乗るという文化が生まれました。夏になると気球に乗って上から綺麗な景色を眺める習慣があり、人口あたりの気球の数は世界一です。
食文化はリトアニアの大事なテーマで、自然の発酵を使った伝統的なライ麦の黒パンはリトアニア人には欠かせません。ツェペリナイはジャガイモの中にお肉が入っている独特な料理で、またピンクのスープも有名です。リトアニアでは昔から農業が盛んで様々な食糧を作っていて、現在の自給率は100%を超え、様々な国に輸出をしています。日本の市場にも入っていて、冷凍のパンやチーズのほか、サイゼリヤのエスカルゴは100%リトアニア産です。国としては遠くに感じるリトアニアですが、実際にはかなり身近な存在だと思います。
日本は島国なので占領された経験はほぼないと思いますが、リトアニアは何度も占領されて複雑な歴史を持っています。リトアニアという国は歴史の中では3回存在していました。そのため、建国記念日、独立記念日、独立回復記念日という3つの記念日があります。
初めてヨーロッパの地図に現れたのは1000年前、日本の鎌倉時代です。リトアニア大公国という時代で、隣のベラルーシやウクライナ、ポーランドやロシアの一部も支配し、ヨーロッパの一番大きな国であったという歴史があります。現在でも当時の建物が残っており、最初の首都トラカイにある湖に浮かんでいるようなお城は500年前の建物で、ヴィリニュスの旧市街は何百年も栄えた街並みで、ユネスコによって世界遺産に登録されています。
リトアニア大公国は500年栄えた国ですが、200年前にロシア帝国によって占領され、地図から完全に消えました。占領の時代は約100年続き、リトアニア語を禁じられるなどたくさんの辛いことがありました。しかしリトアニア人にとって自分の国の言葉は大事なアイデンティティの一部ですので、守らなければいけないという意識がとても強く、海外で出版された本を密輸入で国内に入れるなどの活動を続け、リトアニア語は生き残りました。占領の時代、自分たちの国を作らなければいけないという意識が強くなり、民族運動が起きて、1918年に2番目のリトアニア共和国が誕生しました。
リトアニア共和国は第一次世界大戦と第二次世界大戦の22年間と短い期間しか存在しませんでした。首都のカウナスはわたしが生まれ育った町で、日本の外交官であった杉原千畝さんが有名です。リトアニアと日本の国交関係が樹立され、当時リトアニアは中立国家でナチスドイツとソ連の色々な情報が入ってきていたため、スパイ活動のために杉原さんが領事として滞在していました。しかし二次世界大戦がはじまり、ナチスドイツがポーランドに侵入した時にはユダヤ人がどんどんリトアニア国内に入ってきて、できるだけ遠くに逃げたかったユダヤ人のために、杉原さんはいわゆる「命のビザ」を発給して多くの人を救いました。
その後戦争中に、ソ連とナチスドイツに3度占領され、第二次世界大戦が終わってもそのままソ連の占領下に置かれ、50年間ほど国としては存在できませんでした。わたしはちょうどソ連時代に生まれましたが、不自由、なんでも禁じられるなど、独裁主義の辛い社会経験の思い出がたくさんあります。1980年代にソ連ではゴルバチョフのペレストロイカがはじまり、バルト三国ではまた独立しようという運動が始まりました。ソ連時代には禁止されていた伝統的な歌にちなんで「歌いながらの革命」と呼ばれています。旧ソ連の支配下にあったバルト三国約200万人が手を繋いで作った600km以上にわたる人間の鎖は、独立を果たしたいという気持ちの象徴で、非常に大きな出来事でした。数年間独立運動が続き、1990年3月11日、リトアニアは3回目の独立を果たしました。
現在のリトアニアは民主主義で成功しており、また国際社会が作ったルールを守り続けています。小さな国ですが、国際社会のルールを守るという立場では非常に強くて、勇気のある国です。幸いなことに20年以上EUの加盟国で、NATOの加盟国でもあります。
経済も36年間でとても成功しており、一人あたりのGDPは世界38位、日本に近づいてきました。またデジタル化やイノベーションでも強みがあることは確実で、特に上品質なレーザーは世界で有名で、日本への輸出も22%をレーザーが占めています。教育にも力を入れていますし、女性も非常に活躍しています。
現在のリトアニアは、ロシアに侵攻されたウクライナを支援し続けています。2007年には天皇皇后両陛下がリトアニアにいらっしゃいました。そして2022年、リトアニアと日本は戦略的パートナーシップを公表しました。
桜の公園や日本庭園が数多くあり、日本の文化に非常に憧れている国です。
ご清聴ありがとうございました。