「楽しく一緒に気分よく」

国際ロータリー第2750地区 東京六本木ロータリー・クラブ The Rotary Club of Tokyo Roppongi

文字サイズ変更



卓話

2022年11月

卓話『ESGの”E”と”S”は難しい~私たちが今できるサステナビリティを考える~』令和4年11月21日

株式会社大和証券グループ本社/取締役兼執行役副社長 田代 桂子様

株式会社大和証券グループ本社/取締役兼執行役副社長 田代 桂子様

わたしは1986年の均等法一期生で会社に入社し、36年が経ちました。2016年までアメリカの会長を務め、よく海外畑と言われますが、入社して海外にいたのは1/3で、それ以外は国内の大和証券でオンライン証券や債券、IRの担当をしておりました。そして現在はSDGs、海外部門全般、そしてグループ会社のシンクタンク部分の担当をしております。さらにロンドンを拠点に国際会計基準を策定しているIFRS財団の評議員をしており、IFRS財団がサステナビリティ基準を作っているということが、今のわたしの活動に大きく影響していると思っております。

ESG(環境・社会・ガバナンス)は企業だけではなく、国や公共団体、NPOも、組織であれば無視することができない分野であると思います。過去を振り返ると、ESGはずっと昔からあったものでありませんでした。

1989年から1991年まで、わたしは会社の留学制度を利用してスタンフォードに行きました。スタンフォードはサンフランシスコの近くに位置しており、LGBTQなどの理解はアメリカの中でもあったと思いますが、それでもクラスメイトはカミングアウトするのは非常に難しい状況であったと言っており、当時はダイバーシティにおいてもまだまだレベルは低かったと思います。また女性に対し、平等、ダイバーシティという意識はありましたが、それは多様性が組織を強くするという観点よりも、人権という観点から考えられており、なぜダイバーシティが大切かという観点は今とは違うものであったと思います。卒業してからはシンガポールとロンドンで勤務をし、言語も人種も宗教も違う場所で色々な人と接し、様々な経験をすることができました。多様性がどんなに強いかということをここではじめて感じることができ、同時に多様性は非効率であると感じることも多くありました。

1999年に日本に帰ってきた時にIR室に異動になりました。この時日本は金融危機を迎えており、実際にコーポレートガバナンスはどうなっているのかと聞かれることも多かったように思います。アメリカでは2001年に超一流企業で不正問題が発覚し、ガバナンスに対しての法律ができたという背景もあり、日本の企業でもESGのGが話題に上がるようになりました。しかしこの時でもダイバーシティに関しては多様性という観点よりも、人権という観点からだったような記憶があります。2004年頃になると、ようやく人権の観点からではなく、女性の多様性という観点に移り、海外の投資家から、日本は優秀な人材の半分をなぜ放っておくのかという言葉を言われるようになりました。2013年にニューヨークに行った当初は、アメリカにおいても金融機関はダイバーシティに非常に問題がありこの頃から、ダイバーシティにインクルージョンという言葉が加わり、居るだけではなく意見も言えるような立場に置かなければということで、D&Iという言葉が拡がりました。国連がSDGsを採択し、17のゴールと169のターゲットを発表し、日本では2015年以降にようやく環境問題がクローズアップされるようになりました。よくESGとSDGsの違いについて聞かれますが、わたしの中ではSDGsは個人がやるもの、ESGは企業が取り組むことだと考えています。

なぜ日本の企業にESGが大切なのでしょうか。

日本は、輝いていた1990年から現在までに、競争力は大きく落ち込みました。そして競争力と比例して企業の力も下がってきています。現在の世界の時価総額の上位に日本の企業は入っていませんし、さらには1989年には存在していなかったGAFAM等の企業が上位を占めており、、日本では新しい企業の新陳代謝ができていないということと、テクノロジーで大きくなっている会社がなかったということが考えられると思います。

また、つい最近までは時価総額主義、シェアホルダー主義の世の中であったものが、その他のステークホルダーへ転換してきており、特にヨーロッパは、パリ協定やSDGsの台頭によって、儲ければいいというものではなく、特に環境に対して配慮しないとサステナブルではないという考え方にシフトしました。コロナ禍において企業は打撃を受け、社員に対しても気を配らなければならず、医療制度やwork at homeのサポートなど、従業員に対するステークホルダーとしての重視も考えられています。また投資家の社会的責任として、今まではリターンさえあれば良しとされていたものが、環境に配慮した会社にお金が流れてほしいということで、昔とは判断基準が異なっています。もちろん株主や収益も大切ですが、社会、環境、人権、全てを考慮しないと企業は評価されないという流れになってきていると思います。

そこで新しいルール作りをしなければいけないということで、コーポレートガバナンス・コードが2015年にでき、度々の改訂を重ねています。JPXや金融庁においてもサステナブルに関する情報を開示しなければいけないというルールに変わりました。またIFRS財団でもサステナビリティ基準を作り、ヨーロッパとアメリカにおいても法定開示を強化しようとしています。ただ、どれも確定しているものはあまりなく、IFRS財団ではサステナビリティ開示の統一に向けて動いていますが、当然EUもアメリカもアジアも覇権争いをすることになり、なかなか簡単にはいかないという現状です。しかし環境に対してはデッドラインがあり、色々なルールについていかないと日本企業は競争力を失ってしまいます。逆にルールチェンジに早く対応できると、競争力も右肩上がりに変えられるのではないかと思います。

現在、債権を発行して得たお金をESGやSDGsに使うというSDGs債が非常に伸びています。世界中どこでも関係があるということで世界全体の発行は増えていますが、日本は欧米に比べて寂しい状況です。投資家のお金だけではNet Zeroに向かうお金がたりないということを考えると、個人投資家や国、企業が参加することが非常に大きなポイントになると思います。その中で、大和証券の取り組みとしては、SDGs債を中心に、証券会社としてなにができるか、どうやって投資家を集めることができるのかが大切だと考えております。2008年には日本で初めて個人の投資家向けにワクチン債を発行し、集まったお金で1800億円ほどワクチン購入に充てることができました。またジェンダーギャップについては2025年までに女性管理職を現在の18.3%から25%にするという目標を決め、それを実現するために様々な施策を行っています。ジェンダーギャップ解消には、男性の意識改革も必要なため、男性は最低2週間育児休職しなくてはいけないというルールも作りました。

わたくし共の施策で成功したものもあれば、成功しなかったものもあります。制度の反省をしながら、どうやったらジェンダーギャップを縮めていくことができるのかを考え、次の施策につなげています。ジェンダーギャップを縮めるということは、多様性が増えて競争力を上げることに繋がると思います。ESG、SDGs、人権や優しくするという意味合いではなく、日本の競争力を上げるために真剣に取り組まなければいけないのではないでしょうかという問題提起を残し、本日のお話とさせていただきます。

ご清聴ありがとうございました。

卓話 ブッダ・ダルマ(仏法)の考え方について令和4年11月7日

浄土真宗本願寺派(西本願寺)総長 龍谷大学理事長 石上 智康様

浄土真宗本願寺派(西本願寺)総長 龍谷大学理事長 石上 智康様

仏教はBuddhismと英訳されるのが一般的ですが、それでは、一つの主義・主張になってしまいます。日本の古典には、仏教という表現はほとんど出てきません。
 文化勲章を受賞された中村元先生によれば、明治以降にキリスト教やイスラム教という宗教があることが分ってきたので、それらと区別するため仏教という言葉が使われるようになったとのことです。Not Buddhism But Buddha dharma。ブッダによって覚られたこの世のありのままの実相、すなわちBuddha dharma、仏法です。

 

 

私の「生かされている」という拙文が小学校6年生用「道徳」の教科書に載っていますので、恐縮ながら今日の話の入口として、紹介させていただきます。合掌し、食事をいただこうとしている親子三人の写真が添えられています。

「生かされている」

太陽の光
大気

大地

草木が 生い茂り
鳥や 蝶が 舞う

「降りだして 田植えいよいよ にぎやかに」(長山秋生)
天と 地と 水と
その つながりの中で
人も 生きている

受けつがれてきた いのち
父がいて 母がいて 生をうけ
育まれ
はかり知れない つながり
無量の縁(えん)に 支えられ
今 ここにいる

今日もまた たくさんの いのちをいただいて
食事が ととのい
無事 食べられる
水も 喉を 通ってくださる
その お陰で
今このように 生きている
いのち 在(あ)らしめられている

ありがたくいただく 毎日の食事
生きる源(みなもと)
手を合わせ「いただきます」

眠りについて
なにもしない ままなのに
朝の目覚めが また やってくる
生かされる いのちの不思議に
「ありがとう」

生きていく
自分の器量に応じて 精いっぱい 生きていく
生きていく そのままが 生かされている 私

 

1996年、北陸のある市立中学校で給食時の合掌という作法をめぐり騒動がありました。合掌は仏法の礼拝形式だから、公立学校でやらせるのは憲法第20条に違反するという主張です。職員会議は「異論が出た以上、やめた方がいい」となり、県の教育委員会も中学校の措置を認めました。結論からいうと、合掌は仏法の独占物ではありません。世論は大事にしなければなりませんが、常にそれが正しいとはいえない一つの教訓です。
 教科書に採用された上記の拙文に仏法の専門用語は一つもありませんが、その内容はまるまる仏法です。これこそが憲法違反の教材なのでしょうが、今のところ幸いなことに、どこからもクレームは出ていない。なぜ、拙文が仏法そのものであるのかについて、少しお話をさせていただきます。

 

ブッダ以来、仏法の真理観は「縁起」、「無常」つまり変化や「空」などという言葉で説きあかされてきました。
 教科書の拙文では「父がいて母がいて、生をうけ、育まれ、はかり知れないつながり、無量の縁に支えられ、今、ここにいる」と書きました。太陽と大地と水と、農家の方々のご苦労などがあって食材が創られる。無事、収穫となり、流通にのって店に運ばれ、始めて財布の出動になるのです。さまざまなことやもののお蔭で食事がととのいます。ありがたくいただく毎日の食事、手を合わす世界です。拙文では「今日もまた たくさんの いのちをいただいて 食事がととのい 無事 食べられる…いのち 在(あ)らしめられている」と書きました。
 このように、すべての現象は、原因やさまざまな条件、縁が互いに関係しあい生起している、縁(よ)って起きている、「縁起」しています。なにごとも縁起している世界の中で、みな縁起しているいのちを生きているのです。
 さらに仏法では、もろもろのものが何かを縁として生起していることを、縁起を、「空」であると教えています。空とは何もない、ということではありません。すべての現象には固定した実体、すがたかたちは何もないという意味で、空といわれる。ですから空は、固定した実体のないことを因果関係の側面からとらえた縁起と同じ意味です。何かを縁としないで生起するものは何も存在していないので、空でないものは、何もないのです。
 健康診断をしてもらった時のことです。いつもより血圧の数値が高い。看護師さんに「一度、深呼吸してみて下さい」といわれました。気持ちをリラックスさせ暫くしてもう一度測ってもらうと、平常値に近づいていました。
 私自身を含め、この世の中のことやものは、時々刻々、原因や諸条件が関係しあい変化しています。縁起している事実のほかに、固定した実体、すがたかたちは何もないということです。

 

 もし、ものが変わらないで永続するならば、生じることも滅することもありません。生起・存在・消滅は、いずれも変化にほかなりません。お経には「諸行無常」とありますが、現代人には難しい。Everything is changing といった方が、わかりがいいのかもしれません。この世は無常というと、どうしても、はかない、むなしい、夢まぼろしのごとくであるというような絶望的・詠嘆的な意味で理解されがちになりますが、これは通俗説です。『ダンマパダ』という経典には「こと・ものすべて無常なり と智慧もて 見とおす時にこそ 実に苦を 遠く離れたり これ清浄にいたる道なり」と説かれています。
 清浄とは、執われのない完全に清らかな境地、清浄にいたる道とは、覚りにいたる道のことです。すべての現象が変化しているという事実を正しく観(かん)じることができるようになれば、苦しみから解放される、つまり覚ることができると経典は教えています。
 無常であることそれ自体は、悲しいとも嬉しいとも、いっていない。今ここを不変と思い誤り、変わることなかれと逆らう人間にとって、変化は、苦しみ悲しみのもとになるのです。火葬場で荼毘に付される直前、涙が止まらなかった母との最期の別れ。あの時の愛執の悲しみは、どうしようもないものでした。
 私たちが、いま生きて生活しているこの場の本質は、縁起・変化・空にあるということです。にもかかわらず、どうしても「わがまま我(が)」出て、自分と周囲のものに執われます。私が忘れられない。自己の存在を常に意識する生活から離れられない、解放されていないといってもいいでしょう。
 自分のものは、無くしたくない、もっと欲しい。失敗すれば落ちこんで、憎い、かわいい、好きだ、嫌いだ、喜び腹をたて、病気になるのはイヤ、死にたくない…。思いどおりに生きていきたいと「わがまま我(が)」出るのです。われら凡愚の者、おのれ自身を過信してはいけません。花は美しく咲いても自慢しないし、いつまでも咲いていたい、と欲ばりません。

 

 私がこちらにいて自と他に二分する、対象的思考がはたらき出す以前の、在(あ)るがままのそのまま、それが空の境地です。人間の日々の認識作用である分別の領域を超えています。主観と客観とが未分の、対象的思考も執われも、いっさい混在しない在(あ)るがままのそのままが、本来のまま、顕わになっている。それはここです。それはいま。越前の永平寺をひらかれた道元禅師は
「この生死は すなわち 仏の御(おん)いのちなり」
と仰せになっています。ブッダがご覧になれば、覚られたあるがままの実相からみれば、ただ空なる境地、真実があるだけです。
「救う主体も空 救われるものも空 救われて到達する境地も 空」(中村 元)
 空とは、縁起しているということでした。すべての現象は、私も含めて、いま現に、縁起しています。空なる真実に、摂(おさ)め(迎え)取られて捨てられることはありません。

 

「精いっぱい いつもおまかせ このまんま」
 これが今の私の心境です。誰にまかせるのか。縁起・空なる世界にです。宗教的にいえば、仏さまにおまかせするのです。何をまかせるのか。生き死にのこと、人生、最後のところ、生死の一大事は、おまかせということです。もちろん、この世の縁がつきるその時まで、覚りの真実に教え導かれて精いっぱい生きていくのですが、私自身は凡愚のまま、このままのおまかせです。
 地震の下敷きになるかもしれない。コロナ禍でICUに入れられるかもしれない。お念仏も出ないかもしれない。その時は、なるようにしかならない。その時がくれば、その時の姿のまま死ねばいい。恰好などつける必要はない。つけられるものでもないでしょう。
「それで いい」
 これこそが真実からの救いのおおせ。「それでいい」とカッコでくくるのは、私の言葉ではないという印です。慈悲のきわみ。仏さまから聞かせていただく無条件の救いの言葉です。
「念仏(ねんぶつ)の衆生(しゅじょう)をみそなわし 摂取(せっしゅ)して(救い取って)すてざれば 阿弥陀(あみだ)となづけ たてまつる」(親鸞聖人)



▲ PAGE TOP