東京六本木ロータリークラブ




卓話

2022年1月

卓話『シンガポールの食文化と食の外交』2022年1月24日

駐日シンガポール共和国大使 ピーター・タン様

駐日シンガポール共和国大使 ピーター・タン様

シンガポール大使の大事な仕事は日本とシンガポールの関係を深めることです。特に日本の皆様にシンガポールをもっとよく理解してもらうためには、文化の宣伝がとても大切です。

人との付き合いで、男性でも女性でも人の心を掴むにはまずは、胃袋からとよく言われます。二国間の外交でも同じです。まさかキッチンが外交の舞台になるとは思わないでしょう。しかし食べ物はグローバルな外交で、益々大事になっています。食べ物を通じて個人と社会が互いに関わっています。ですから、食の外交で私はシンガポールの多民族で多様な文化を皆様に知っていただきたいです。

シンガポールの食文化についてですが、初めにシンガポールはいろいろな文化が溶け合いフードパラダイスと呼ばれています。中国系と西洋の融合はシンガポールの食文化を多様で豊かにしました。シンガポール人は中国系、マレー系、インド系、プラナカン、 ユーラシア系で構成されます。いろいろな民族文化の融合と出会いが、シンガポール特有の魅力になりました。シンガポールでは世界各国の料理を楽しむことができます。

2番目にシンガポール料理は、シンガポールの民族の豊かな食文化を地元料理にうまく取り込んでいます。中国系、インド系、マレー系そして西洋の料理の特徴はシンガポールの食文化に大きな影響を与えています。

3番目にシンガポール人はスパイシーな料理が好きなので、辛く、スパイシーなレストランがたくさんあります。スパイシーな料理の多いマレー系やインド系の影響と言われています。また、唐辛子は余分な脂肪を燃やすと言われているので、健康のためにスパイシーなものを食べています。

4番目にシンガポール料理には麺、米、シーフード、いろいろな肉が使われます。有名なシンガポール料理にはハイナンチキンライスやラクサなど、肉を入れた米や麺の組み合わせが多いです。シンガポール人は鶏肉、豚肉、牛肉が好きです。また、シーフードも有名でチリクラブ、ブラックペッパークラブなどがあります。

5番目にシンガポールのユニークな食文化にホーカーセンター、いわゆる屋台があり、地域の食事の場となっています。いろいろな屋台があり、それぞれ名物があります。共有のスペースもあり、屋外の屋台で多文化のいろいろな料理が楽しめます。ホーカーセンターはシンガポールのあちこちにあり、地元の人たちの食堂になっています。ホーカーフードは多文化から生まれ、シンガポール人の好みに合わせてきました。多くの料理がシンガポールの食と文化そのものになりました。

ホーカーセンターはシンガポールの多様な食文化を体験する最適な場所で、あらゆる料理を楽しむことができます。シンガポール人の特徴の一つは、食への深い愛です。シンガポールのホーカー文化はホーカー料理を作る人と、それを共有スペースで他の人と一緒に食べる人が作る伝統です。人と国としての多文化のアイデンティティです。シンガポールの全ての人たちと響きあっています。シンガポールの生活の中心であり、様々な人たちがホーカーセンターに集まり食事をし、ホーカーが作った料理で絆を深めます。シンガポールの多文化社会を繋ぐ、網の目のような社会の交わりの場所です。

国際的にもホーカー文化はユネスコ無形文化遺産に登録されました。それは、シンガポールの誇りです。

コロナで国境は閉鎖され、人と人との交流は制限されています。テクノロジーを使ってミーティングはできますが、対面はかないません。今日は皆様にシンガポールの食文化を紹介しました。国境が再開したら是非シンガポールにいらっしゃって、シンガポール料理を味わってください。

ご清聴ありがとうございました。

卓話『占領下のナースたち・「命の恩人花田ミキさんのこと—映画化を目指して」』2022年1月31日

映画監督 五十嵐 匠様

映画監督 五十嵐 匠様

映画監督の五十嵐です。30年前に「兼高かおる 世界の旅」という番組で仕事をしており、兼高さんの事務所がある六本木に1,2年通っていました。夜は煌びやかで綺麗な街ですが、朝はカラスが多くざわざわしていて、裏と表があるなというのが六本木の印象でした。兼高さんは、体調が悪い時も「わたしの体がどうであれ作品には関係ない」と言うようなものすごく強い人で、そして優しさを持っている人でした。六本木でこうしてお話できる機会をいただき、強さと優しさが魅力であった亡き兼高さんのことを思い出します。

現在映画監督協会にはおよそ520名の会員がいますが、その中で映画館にかかる劇場用映画を撮っている監督は数が少ないように思います。僕は一時期、職業に映画監督とは恥ずかしくて書けませんでした。10本劇場用映画を作ったら初めて映画監督と言っていいのではないかと師匠に言われ、今回の沖縄の戦争映画(新作映画「島守の塔」)で13本になり、60歳を過ぎてようやく映画監督と言ってもいいかなと思っています。

今回のテーマは花田ミキさん、青森で有名な、保健師であり看護の人です。僕がここに立っていられるのは花田さんのおかげです。僕は2歳のころ、青森県の奥羽線という弘前と青森を結ぶローカル線で突然ひきつけを起こして呼吸が止まってしまいました。お医者さんはいませんかと走り回る母の元へ一人の女性が突然出てきて、舌を噛まないように僕に割り箸を噛ませました。浪岡という駅で電車を止めて、自衛隊のジープを借りて病院に連れて行ってくれた女性が花田ミキさんです。それ以後50歳になるまで、僕は花田ミキさんが何をやっている人かを知りませんでした。看護師で賞をとったことがある人だということは知っていましたが、調べる機会がありませんでした。ある日、東奥日報という地元紙の方から連絡があり、花田さんが僕を助けてくれたという記事があることを知り、「匠ちゃん愛のリレー」という見出しの新聞記事をメールで送ってくれました。僕は自分の命の恩人を知りたくなり、もっと言ってしまうと、映画人としてなにかプラスになることが出来ないか、恩返しをしたいと思いました。

1949年、戦後4年経った頃、青森県の八戸市でポリオの集団感染が発生しました。しかしその当時はワクチンもないし、どうしようもない。その時に花田ミキさんが何をしたかというと、りんごを一籠ぶら下げて、東京のGHQ占領軍に行くわけです。そこで初代の公衆衛生福祉局の初代看護課長オルト・グレースと出会います。

オルト・グレースは、メリーランド州のボルチモア出身で、ジョンズ・ホプキンズという看護学院を卒業しています。終戦後に日本にやってきて看護と保健がどうなっているのかを調べ、日本には教育の水準や資格取得に関する基準がなく、看護職の職業団体が看護職ではない男性によって運営されていることを知ったオルトは、看護教育審議会を発足させ、そして赤十字病院の中に東京看護教育模範学院を作りました。そのオルトと花田さんは出会ったわけです。

1930年代から50年代にアメリカでポリオが蔓延しました。同じくその頃オーストラリアでは、学校にも行っていない、独学で学んだ看護師が確立したケニー療法により、ポリオをある程度抑えることに成功していました。当時ポリオは運動禁止、関節は固定、動かさないことが療法の一つでしたが、ケニー療法は、ホットパックを使って温熱療法をし、同時にベッドの上で運動療法、リハビリに近いことをするわけです。オルトはケニー療法の資料を花田さんに渡しました。花田さんは、そこから1人で東京大学へ行き、学生に翻訳を頼みます。学生が徹夜をして訳してくれた資料を持って青森に帰り、八戸の赤十字病院でケアを始めました。また東奥日報社に掛け合って家庭でのポリオ療法を新聞に載せ、青森県中の人に療法を伝えました。それと同時にオルトからもたらされたものは、学校、教育が必要だということです。花田さんは中国で従軍記者経験があった当時の竹内知事に掛け合い、青森県立の病院設立をきっかけに高等看護学院を作ることになりました。しかし新聞の募集にはたった一人しか応募がなく、手作りの紙芝居を作り、看護学校に入ってくれないかと青森県中の高校に紙芝居を見せに行き、結果的に50名以上の生徒を集めました。

そのような人であった、自分の恩人である花田ミキさんをなんとか映像化できないかと思い、計画を進めています。今コロナの状況が非常に厳しく、もし今花田ミキさんが生きていたら何をしただろうかと思うわけです。おそらく曖昧なことはしない。一人でなにか明解なことをやったのではないかと思います。

今回光栄な機会をいただき、皆様のおかげでこうしてお話をさせていただいています。僕がいつも思うことは、映画は1人ではできず、人の縁だということです。縁がなければしょうがないと思うしかない。その縁を追う必要はなく、しかし一生懸命なにかをすると、必ず人の縁ができてくるのではないかと思っています。僕は今まで実在の人物を多く描いてきました。嫌いな人は描けませんが、嫌いな人でも好きなところがあれば描けるわけです。人間というのはやはり真っ黒ではなくて、白いところもあればグレーなところもある。僕の前作の「二宮金次郎」という映画でも、二宮さんはお百姓さん達が本当に働いているかどうかのぞき穴から見ていたという話を聞き、また、銭湯へ行った時のお金やおしろいの値段など、そんな細かいことまで家計簿に書いていたことを知り、そこが魅力的で映画になると思ったのです。二宮金次郎というと修身の教科書で非常に教育的な匂いがしますが、二宮さんはそうではなく、もっと泥臭い、非常に魅力的な人間だったと思います。彼の思想というか、分度、つまり身の丈で生きるとか、そういうところが僕としては興味深く思い作りました。全国で上映しようと動いていましたが、コロナがあり77ヶ所延期キャンセルと大変な状況になりましたが、今少しずつ少しずつ全国に広まっていこうとしています。

映画監督という仕事は職業としては非常に厳しいですが、個人としては非常にやりがいのある、人との繋がりがある、もっと言ってしまえば、100年200年自分の作品を遺すことができる、意義のある仕事だと思っています。今年は沖縄復帰50年で、スタッフ一丸となって「島守の塔」という映画を作っています。かつて映画「ひめゆりの塔」に出演なさった香川京子さん、萩原聖人さん、村上淳さん、吉岡里帆さん、他、魅力あふれるスタッフキャストと共に全力で作っていますので、観ていただけると嬉しく思います。

本日はありがとうございました。



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