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国際ロータリー第2750地区 東京六本木ロータリー・クラブ The Rotary Club of Tokyo Roppongi

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卓話

2021年9月

卓話『「わんぱく相撲」の魅力~負けの経験が心を育てる~』令和3年9月13日

公益社団法人東京青年会議所 顧問/(株)三善堂 常務取締役 諸田 徳太郎様

公益社団法人東京青年会議所 顧問/(株)三善堂 常務取締役 諸田 徳太郎様

東京青年会議所は、25歳から40歳までの青年経済人と言われる方々が集まって地域貢献活動を行っている団体です。わんぱく相撲以外にも様々な課題に取り組んでいます。

私は学校を卒業した後証券会社で少し修行をしまして、現在は家業である浅草の仏壇店、また墨田区の葬祭備品を販売している会社を経営しています。実は1991年に地域の大会で優勝し、わんぱく相撲の全国大会に出場したという経験があります。校長先生から表彰され、本当に誇らしい気持ちで両国国技館に行きましたが、倍以上の体重の選手に見事に押しつぶされて負けてしまい、大変悔しい思いをしたことを覚えています。

その後、就職活動での自己分析にわんぱく相撲の負けの経験を書いており、また証券会社に勤めていた時の広報誌のインタビューでもわんぱく相撲の話をしました。自分の人生の中で、負けたくないという思いを強くさせた経験であり、人生の大切な岐路であったと思っています。青年会議所入会後にわんぱく相撲をやっている団体だということを知り、それはもう全力でわんぱく相撲をやっていきたい、自分自身が経験し、学び、心を育んでもらったものを、一人でも多くの子ども達に経験してもらいたいと思い、入会11年目の今もわんぱく相撲に力を入れて活動させていただいております。

わんぱく相撲は、当時遊び場が少しずつ減ってきた子ども達の心身健全の育成を目的に、1977年にスタートしました。1981年には全国の青年会議所で一緒にやりましょうということで全国展開され、1985年に国技館が蔵前から両国に移ったタイミングで、当時の文部省の「日本相撲協会と東京青年会議所が共催で全国大会をやるように」という指導のもと、わんぱく相撲全国大会がスタートしました。

わんぱく相撲は、子ども達の礼節を重んじる心と、相手に対する思いやりや感謝の心を育み、勝つことの喜びや負けることの悔しさの体験から、夢や目標に向かって諦めない行動を続ける大切さを実感していただくことで、青少年の心身の健全育成を目指しています。少し前にゆとり教育が取り沙汰されていましたが、順位はつけず全員同率だという教育より、しっかりと負けを認識させることが重要だと思っています。またなぜ相撲なのかという点においては、団体競技ではなく自分の力のなさで負ける個人競技であること、日本の伝統文化であり国技であること、また対戦時間が短くたくさんの子ども達に経験してもらえるという意味では、相撲が最適なのではないかと思っています。

わんぱく相撲のスケジュールとしては、約4万人がエントリーをする地区大会が全国各地200ヶ所で開催され、地区で勝ちあがった子ども達が都道府県大会に出場し、そこを勝ち上がった子ども達が全国大会に出場します。本来は7月末から8月の頭、名古屋場所が終わり地方巡業をしている間に両国国技館で行いますが、今年はオリンピック・パラリンピックの関係で10月31日に開催予定です。昨年はコロナの影響で中止、また一昨年もオリンピック・パラリンピックのプレ大会の為に国技館の利用ができず、3年ぶりに両国国技館で開催することができる年となりましたが、今年の地区大会は100を下回り、それでも少しでも多くの子ども達に機会を提供したいということで、選考会等を開いているという現状です。

わんぱく相撲精神を世界へということで、2014年にモンゴル大会が開催されました。東京青年会議所のメンバーがモンゴルへ行き、現地の青年会議所と一緒に大会を運営しました。今ではモンゴルの青年会議所が単独で実施をしており、技のデパートモンゴル支社と言われていた元旭鷲山にも参加していただき、大会が運営されています。

モンゴルからの留学生であるソソルフー君が、8月に行われた相撲のインターハイに鳥取城北高校の2年生で出場し、団体優勝、個人でも3位という成績を残しました。彼は相撲をやったことがない状況でわんぱく相撲に参加し、モンゴル大会優勝、そして両国国技館で相撲をとりました。子ども達には、悔しがったりガッツポーズをするべきではないという相撲精神を伝えているのですが、ソソルフー君は敗れた時に土俵を叩いて大泣きしていたことをよく覚えています。そこから相撲を真剣にやりたいと日本へ留学し、今高校で活躍をしている大変楽しみな選手です。他にもパラオ大会、ハワイ大会など、海外で相撲精神を拡げていこうということで、現地の様々な団体にご協力をいただきながら開催をしています。

元横綱 稀勢の里 荒磯親方はわんぱく相撲経験者で、全国大会で優勝しています。また今現役の日本出身力士は、全員と言っていいほどわんぱく相撲を経験しています。稀勢の里関は、「当時は野球少年だったけれど、わんぱく相撲の全国大会で負けて悔しい思いをした経験から、相撲の道に専念した」とおっしゃっていました。琴奨菊関も「わんぱく相撲のテーマソングを聞くと未だにものすごく緊張する」とおっしゃっていました。また2014年に私が大会の責任者をさせていただいた時に優勝した花岡君が、現在日本大学1年生で活躍をしています。話を聞いたところ、やはりわんぱく相撲にすごく思い入れがあり、のちのちしっかりとサポートしていきたいとう心強い言葉と、是非大相撲で活躍する姿を見せたいという力強い言葉をいただき、それだけわんぱく相撲がたくさんの子ども達に様々なものを与えているのだということに気付かせていただきました。

多くの子ども達に成長発展の機会を提供し続けているわんぱく相撲ですが、全国で多くの子ども達に経験させるということは、東京青年会議所が単独でできることではなく、全国の青年会議所が地域の方々に協力をいただきながら運営し、また日本相撲協会さんと協議をしながら開催することができています。この持続的な仕組みは簡単に作れるものではなく、多くの先輩方が脈々と受け継いできたもので、この青少年の健全育成の仕組みをさらに発展させていかなくてはいけないと強く思っています。今年は女子の第2回全国大会を名古屋で開催する予定です。国技館では女子が土俵に上がれないという事情もあり全国大会の開催には至っておりませんでしたが、女性にも平等な機会を提供すべきであるということで動いています。

どのような時代、社会背景であっても、子ども達の心身の健全育成の機会は重要であります。負けの経験、悔しさから立ち上がる機会を子ども達に提供する必要があるということで、これからもわんぱく相撲を持続発展させていきたいと思っています。

わんぱく相撲はご協賛で成り立っております。全国の子ども達の健全育成を応援したいと思っていただける方がいらっしゃいましたら、是非ご一報いただけたらと思います。

本日はご清聴ありがとうございました。

卓話『今に伝わる「マリア観音」探訪』令和3年9月27日

聖心女子大学 学長 髙祖 敏明様

聖心女子大学 学長 髙祖 敏明様

今年5月、かまくら春秋社より 潜伏キリシタン図譜 が刊行されました。北は北海道から南は九州まで、全国に散らばって今に伝わるキリシタンの遺物や習俗を約1500点のカラー写真に収め、日本語と英語の完全対訳で解説した800ページを超える一種の図鑑です。1000部限定の番号付きで、2019年11月に来日されたフランシスコ教皇から刊行に期待するお言葉をいただき、0001番はローマ教皇に謹呈いたしましたところ、「この書から慰めとインスピレーションを受けることができます。日本のキリシタンを知る上で明らかに有益な貢献を果たします。」というお礼のお手紙が届きました。本日は潜伏キリシタン図譜から特にマリア観音像に注目してお話をさせていただきます。

マリア観音と聞きますと、普通は白磁の子安観音像、あるいは白衣観音像が想起されます。東京国立博物館が所蔵しているマリア観音像は、潜伏キリシタンが聖母マリアのイメージを見出して祀っていた中国製の観音像で、福建省から長崎に舶載されたものと言われています。浦上のキリシタンたちが秘匿していた白磁の御像が有名ですが、これらは長崎奉行所が1856年の浦上三番崩れで全て没収しています。没収時の取り調べ調書には「ハンタマルヤとか申す御像」との記述がみられ、キリシタンたちがこの御像をマリア観音とは呼んでいなかったことを伝えています。なぜマリア観音と呼ばれているのか。この疑問については後ほどご説明いたします。

1865年3月17日、1ヶ月前に献堂したばかりの長崎大浦天主堂に現れた見物人の一団がプティジャン神父に「サンタマリアの御像はどこ」と尋ね、聖母マリアの御像と対面して、自分達は浦上の者で、村中が同じ信仰を持っていると打ち明けました。信徒発見と言われていますが、私は浦上の潜伏キリシタンによる神父発見だと考えています。ハンタマルヤの御像を全て没収されていたキリシタンの心情を思いやりますと、観音像の背後に見ていた聖母像への強い渇望があったものと想像できます。こうした聖母マリアへの親しみは、日本にキリスト教を伝えたフランシスコ・ザビエル以来の伝統でもあります。

日本へのキリスト教の伝来は、1549年8月15日、ヤジロウに導かれたザビエル一行が鹿児島に上陸したことから始まりました。1551年2月頃には天皇や将軍から宣教の許可を得ようと京に上りましたが、応仁の乱による興廃が続いておりわずか10日程で辞去しています。その後は山口の大内義隆の下と、大友義鎮が治めていた豊後府内(大分)で宣教し、11月には新たな宣教師を派遣する計画を胸に日本を去りました。以来キリスト教は民衆から武士、大名に至るまで多くの人々の心を捉え、秀吉が1587年に伴天連追放令を発したものの、1600年頃には全人口3000万人のうち、キリシタンは少なく見ても30万人を数えたといわれています。当時の教会の様子は、狩野内膳が描いた有名な 南蛮屏風 にて窺うことができ、狩野宗秀筆作 都の南蛮寺図 では最初の教会の姿を伝えています。この南蛮寺は残念にも秀吉の伴天連追放令に伴い破却されており、その遺品はおろか、正確な場所さえ歴史に埋もれています。次に京に聖堂が開かれるのは1600年で、イエズス会の上京教会です。これに少し遅れてフランシスコ会の教会、また下京五条にはイエズス会の南蛮寺が再建され、都のアカデミアが敷設されました。しかし1612年と1614年の禁教令によって全て破壊され、禁教令は執拗な詮索と検挙、迫害へと精鋭化し、キリシタンは殉教、棄教して転宗、あるいは潜伏のいずれかの選択を迫られることとなり、ここに潜伏キリシタンが誕生します。

図譜に収録されたマリア観音像には、浦上キリシタンが所持していた白磁製以外にも、石像、木像、真鍮製、鋳造製など、イメージも素材も多彩な姿を示しています。

山口県長門の先大津…キリシタン武将熊谷元直の領地であり、木像の子安観音が2体あります。キリシタン大名有馬晴信の家紋が見られ、赤ちゃんを差し込む形で、祈りを捧げる時に赤ちゃんを装着したと伝えられています。

宮城県登米市東和町…カトリック米川教会には木像と鉄製のマリア観音像があり、後者の裏側には十字架が象嵌されているそうです。

秋田県横手市曹洞宗春光寺…木像で西洋風のマリア観音像があります。頭部、顔面と側面が刃物で削がれており、両腕の先はなく、子どもがもぎ取られています。このように、迫害期は御像の受難の時代でありました。

静岡県の曹洞宗大雲寺…石像のマリア観音像があります。眠った子を抱きかかえる姿は、十字架から降ろされたキリストを抱きかかえるマリアの姿(ピエタ)を連想させると言われております。

秋田県湯沢市川連観音祠…抱かれた赤ちゃんが母の胸に刻まれた星を指していることから、聖母マリアが幼子イエスを抱いた聖母子像だろうと言われております。

秋田県湯沢市寺沢地区…キリシタンが鉱山の鉱夫に交じって身を隠していたことで知られる院内銀山に近接しており、かつてはキリシタンの村でした。1624年に告発が元で16名の殉教者が出ています。村人がキリシタン慰霊のために観音堂を建て、聖母が幼子イエスを抱く聖母子像を祀ったと伝えられています。

福岡県筑前町…キリシタン大名黒田直之が治めた秋月藩の家老の家柄である久野家伝来の真鍮製のマリア観音像があります。幼子イエス像は釘で後付けされており、脇に突き刺さるこの釘はキリストの苦難を表しているとされています。

長崎県五島市奈留島矢神集落…隠れキリシタン北川家に代々伝えられてきた鋳造製のマリア観音像があります。現在は後継者を欠いた北川家から託されて、奈留島阿古木隠れキリシタンの里が所蔵しています。

兵庫県丹波篠山市大渕長徳寺…白磁製のマリア観音、子安観音像があります。白磁に顔料が厚く塗られており、膝の上に子どもを抱いています。足の下に龍を踏むという構図はカトリックでは無原罪の聖母の特色であり、白磁なのに色付けされているという点では異彩を放っています。

ここからは、読者から資料提供があった、図譜に収録されていないマリア観音像をご紹介いたします。

山形県東根市龍泉寺…観音菩薩像に共通する持ち物は一切なく、十字の印もついていません。しかし昔の住職から聞いた話として、「役人が来ることが分かっていれば、幼子の代りに花束を持たせた」という興味深い言い伝えがあるそうです。

宮城県南部の川崎町支倉円福寺…久保田玄立というお坊さんが地道な実地調査の結果をまとめた 私考・宮城県南の奥州隠れキリシタン の表紙を飾っているマリア観音があります。紫桃正隆の 仙台領キリシタン秘話 でも紹介されており、当時の住職に「慶長遣欧使節である支倉常長の菩提寺ですか」と尋ねると、菩提寺ではなく祈祷所でしょうと答えたということを書き残しています。抱かれた子どもが着ている肌着の部分に十字が刻まれており、イエスではないかと言われているそうです。

福島県会津は、高山右近の勧めによって洗礼を受け、レオンの名をいただいたキリシタン大名の蒲生氏郷によってキリスト教がもたらされました。会津におけるキリシタン文化調査研究事業実行委員会の調査研究報告書には、3種のマリア観音が紹介されています。

会津西部柳津町 久保田三十三観音の7番目如意輪観音像…十字の付いた錫杖を持つためマリア観音ではないかと言われているそうです。近くには軽井沢銀山があり、山で働く鉱夫には潜伏キリシタンが多かったとも伝えています。

南会津町常楽院…石像のマリア観音があります。建前上は子安観音として信仰されたそうですが、頭部にくっきりとした十字の浮彫が見られます。

南会津水無集落…会津キリシタンの指導者であった横沢丹波らが捕らえられた場所で、その墓地には腹部に5つの穴が十字形に配置されたマリア観音と目される観音像があり、これは十字を表現したもと考えられるという説明が加えられています。

長崎純心大学の学長によりますと、1873年2月にキリシタン禁制の高札が下ろされ、キリシタンの潜伏時代が政府の方針上は終わります。高札撤廃から6年後の1879年頃、長崎奉行所が所持していたキリシタンの没収物が政府の内務省社寺局に移され、次に東京国立博物館に移管されましたが、その際に分類名称として「マリア観音」という名があてられ徐々に一般化していったと説明しておられます。またマリア観音は、所持者が正真正銘のキリシタンであり、聖母のイメージを見て祀っていたという確かな証拠がなければマリア観音とは見なされません。かつて浦上三番崩れで没収された白磁のマリア観音像はすべて東京国立博物館が所蔵していますが、その一体一体に元の所有者の名前と住所がつけられており、確かにキリシタンが持っていたマリア観音だと言えます。

今に伝わるマリア観音像は素材もイメージも多種多様です。もちろん、伝えられてきたマリア観音が全て潜伏キリシタンに繋がるかは疑問の残るところで、地域の言い伝え、お寺さんの伝承に基づくものも少なくありません。しかしこれらの伝承には大きな力があります。それぞれの伝承が途切れたり御像そのものが闇に葬られたりする前に、それらを裏付ける伝手や証拠はないか、そして日本の精神史や宗教文化史の中にしっかりと位置付けることはできないものか。図譜を刊行した狙いの一つがここにあります。そういう意味ではプロジェクトはまだ継続しています。皆様からもご支援やご教授をいただけましたら嬉しく思います。

本日はご清聴ありがとうございました。



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