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国際ロータリー第2750地区 東京六本木ロータリー・クラブ The Rotary Club of Tokyo Roppongi

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卓話

2021年3月

卓話『日本人の起源をDNAで追究する』令和3年3月1日

国立科学博物館 副館長 篠田 謙一様

国立科学博物館 副館長 篠田 謙一様

この日本列島に私たちの直接の先祖ホモサピエンスが現れたのは旧石器時代、4万年ほど前だと言われています。1万5000年前になると列島に土器が出現し、縄文時代がはじまります。旧石器時代については残念ながらそれほど多くのことがわかっているわけではありません。一方で縄文時代や弥生時代になると全国各地から人骨が数千体発掘され、縄文人と弥生人の関係がわかってきました。

縄文時代、日本列島全体に縄文人と呼ばれる人たちが住んでいました。3000年前になると朝鮮半島経由で稲作農耕と金属器の文化を持っている渡来系弥生人が入り、彼らが在来の縄文人と混血をしながら稲作農耕を拡げ、本州を中心とした本土には混血の人たちが住むようになります。一方で稲作が明治まで入らなかった北海道や、今から1000年くらい前にようやく稲作が入った沖縄の地域は、元々の縄文人の子孫が住んでいたと考えられています。

北海道には5世紀から10世紀にかけて沿海州地域からオホーツク文化人が入ってきますが、10世紀を過ぎると彼らは姿を消し、アイヌ文化の時代になります。アイヌの骨格は縄文人と似ているので、北海道は縄文的な人がずっと住んでいたのだろうというシナリオが描かれています。これが骨の形からみた日本人の成り立ち、二重構造説という考え方です。しかし実際にDNAの分析をしてみると、それほど簡単ではないということがわかってきました。

DNAでどのようにして日本人の成り立ちを調べるのでしょうか。この基となる考え方はDNAの配列です。私たちは皆DNAを持っています。それが親から子どもへ伝わり、孫へと伝わっていきます。その中で時々起こる突然変異を鍵としてグルーピングすることで、大元がどのようなもので、どの系統になるのか、またどう変わっていくのか、次はこう変わっていくのだということがわかってきます。

私たちの細胞は37兆個ぐらい持っていると言われており、その一つ一つの核の中に人間の設計図であるDNA、遺伝子が入っています。核にあるDNAは30億塩基対という非常に膨大な量が入っていて、両親から半分ずつをもらって一人の人間のDNAができあがります。性染色体のみ、Y染色体は男性から息子だけに伝わっていきます。一方でミトコンドリアは独自のDNAを持っており、母から子どもに伝わります。ですから私たちの体の細胞の中には、両親からもらう部分、男の子は父親からもらう部分、そして母親からだけもらう部分があるということです。これはそれぞれに突然変異を起こしますから、DNAを調べることで系統がわかってきます。

エネルギーを作る重要な働きをしているミトコンドリアですが、世界中の3000人ぐらいのミトコンドリアDNAを読み、比べた研究があります。一人ひとりが持っているミトコンドリアのタイプの中で最も似ているものを集めて系統樹を書くと、ひとりのアフリカの女性が持っていたミトコンドリアの配列にたどり着きます。そこから逆に見ていくと、大きく2つに分かれ、1つはアジア、もう1つはアジアとヨーロッパへ向かったこともわかりました。つまり現代人のミトコンドリアDNAを調べることによって、人類がどこで生まれ、どのように広がっていったのかがわかるということになります。同じミトコンドリアの共通先祖を持つ集団をハプログループと呼びます。同じハプログループを持った人は、母方の先祖が近い関係になります。日本人の3人に1人はD4と呼ばれているハプログループタイプで、次に多いのがB4で1割、残りは非常に少ないタイプとなっています。Fというタイプは日本人では5,6%ですが、ベトナムでは半数がFで、そこから東南アジアで発生したグループであると分かります。さらに、M7aとN9bというほぼ日本列島に限局しているタイプもあります。

日本人で父から息子に伝わるY染色体のハプログループを見ると、大きく分けてC、D、Oの3つがあります。CはさらにC1とC2に分かれます。C1とC2はそれぞれアジアの北と南に多くみられ、Dは日本列島に限局していますが、チベットに親戚がおり、Oは東アジアから東南アジアにかけて多くの地域で見られます。

私たちのDNAは核の中に30億文字分入っていますが、比較すると1000文字に1ヶ所程度違っていることがわかります。これをスニップと呼び、その違いは髪の毛や肌の色などの違いの元になります。このような違いは、婚姻をして子どもに伝わったものがさらに孫へと伝わり、集団に拡がっていきます。スニップの組み合わせは集団によって異なりますので、スニップの違いが近いものは近い時代に分かれたことがわかりますし、全く違っていれば全然違うグループだと言えます。2008年に行われた研究によると、日本列島集団は遺伝的には違う2つのグループで出来上がっていることがわかりました。しかし世界全体で見ると、日本人と韓国人、また中国人は多少の違いはあるものの、東アジアのタイプとなります。これから国際結婚がどんどん進んでいくと、ヨーロッパとアジア、あるいはアフリカとアジアの間に集団が生まれ、世界の真ん中に分布が集まってくるだろうということが予想されます。

現代日本人のDNAは、ミトコンドリアDNAもY染色体のDNAもアジアの広い地域に共有されていますが、一方で日本列島特有のグループも存在することがわかりました。2010年以降DNAを調べる技術が爆発的に進展し、核のDNAまで分析できるようになったことで、全国から出土し同じ縄文人だと思っていたものが、N9bは北海道や東北、関東に多く、一方でM7aは西日本で多く見られることまでわかるようになりました。また現代人と同じレベルで数体の縄文人のDNAを調べたところ、血液型やお酒が強いということがわかり、さらに今までアイヌや沖縄の人の特徴を使って復顔していたものが、高精度ゲノムを利用しての復顔ができるようになりました。

高精度ゲノムにより、ヨーロッパでは白人のイメージが刷り込まれているので、今も昔もずっと白人だと思い込んでいたものが、1万年前の復顔像は、肌が茶褐色、髪の毛は黒、目の色はブルーという結果になりました。さらにブリテン島を見てみると、5600年前はまだ肌の色は茶褐色でしたが、2000年を超えると今のイギリス人と比べても違和感のない顔になってきます。こうしたことから、ヨーロッパでかなり複雑に遺伝子が変わっていったことがわかっています。

日本列島の古代人を詳しく調べてみると、旧石器時代から縄文時代まで、そして弥生から後の時代にも相当な数の人が入ってきて、今の私たちの母体になっていることがわかります。基層集団の縄文人の世界に渡来した弥生人が混血して現代日本人になったというのは、おおむね正しいと分かりましたが、縄文人も地域や時代によって遺伝的には異なる集団出会ったことも分かっています。渡来した人たちとの混血も千年以上かけて行われたことも分かってきました。一方で北海道ではオホーツク文化が入るなど、色々な時代に様々なルートから入ってきた人たちが、今日本列島の中で交雑して日本人になっています。

150年前までは日本人の成り立ちは神話でした。しかし150年が経ち、過去の人たちのゲノムが分かる時代になり、様々なことが理解できるようになったということです。

ご清聴ありがとうございました。

卓話『テロと紛争の解決に向けて』令和3年3月15日

NPO法人アクセプト・インターナショナル 広報・ファンドレイジング局長 河野 智樹様

NPO法人アクセプト・インターナショナル 広報・ファンドレイジング局長 河野 智樹様

NPO法人アクセプトインターナショナル 広報ファンドレイジング局長を務めさせていただいております河野と申します。国際協力機構JICAにて、保健と教育と平和構築という分野を担当し、学校や病院の建設や地雷の撤去などを担当していました。これまでの経験の中でテロと紛争の問題が最も解決されなければいけないという認識を持っており、国内の中で唯一、紛争とテロの問題にダイレクトに取り組んでいるアクセプトインターナショナルに移ってきての現職になります。

アクセプトインターナショナルは、テロを止める、紛争を解決するという莫大なミッションを掲げ、ソマリアなどの紛争地で活動をしているNPO法人です。本日は「テロと紛争の解決に向けて」というタイトルで、我々の取り組みについて知っていただくこと、難しい問題に対しても常に前向きな姿勢で進んでいくこと、皆様に仲間になっていただくこと、この3つを目標にお話できればと思います。

テロという言葉は聞いたことがあると思います。例えば自爆テロは、ISILなどのイスラム過激派組織の兵士が身体に爆弾を巻きつけて爆発するという事例のように、一般人を対象に恐怖を植え付け、殺傷を目的に行われる行為を指します。2017年度のテロの発生件数は、世界全体で1万900件と報告されています。過去5倍もの数字で増加の傾向にあり、それによって亡くなった方は2万7000名にものぼります。テロは、難民問題や貧困問題、そして飢餓の問題や教育問題にも発展しかねないという厄介な側面も持っています。

我々は、外務省の危険度マップで最も危険なレベル4としてカテゴライズされているソマリアという国で活動しています。国連やアメリカ軍が介入した歴史もありますが、強靭なテロ組織によって苦戦を強いられ、忘れ去られてしまった国とも呼ばれています。

ソマリアでは、9.11同時多発テロの首謀者とされているアルカイーダに忠誠を誓っているアフリカで最も危険なテロ組織「アル・シャバーブ」がテロを起こしています。ソマリアの南部の大半を占拠し、国を覆して自分たちの国をつくり、イスラム教によって世界中が統治されることを目指しています。アメリカ軍のような軍事力やお金を持っているわけではない彼らが、手っ取り早く人を傷付けることができる手段がテロということです。アフリカはテロ発生件数が世界でトップレベルですが、その約半分に関わっているのがアル・シャバーブと言われています。

テロと紛争の問題は非常に危険を伴い、また宗教的、思想的な要素が非常に強く、どの文献、論文、本を探しても、確固たる解決策がありません。そして誰もやろうとしません。今現在テロと紛争の問題に取り組んでいる団体は皆無に近い状態です。アメリカ軍による対処がなされていますが、一般人が巻き込まれ、その怒りでテロ組織に入るという憎しみの連鎖が生まれています。我々は、暴力ではない方法で暴力ではない方向へと導き、テロ組織の人的勢力を下から削いでいくことを目指して活動しています。誰もできないのであれば前例を作ろうという想いで、テロリストが武器を置ける社会を実現し、取り残されている人に手を差し伸べるという平和的なアプローチで問題に取り組んでいます。

アクセプトインターナショナルは、ソマリアで最も多くのテロリストが収監されている中央刑務所に活動拠点を置いています。ここにはメディアはもちろんのこと、世界中のNGOやNPO、国連機関でさえほとんど足を踏み入れることができておらず、拷問され、否定され続け、釈放後に組織に戻ってしまうテロリストが多いという状況がありました。だからこそ、駆逐する側でも否定する側でも傷付ける側でもなく、中立的な立場で彼らを受け入れる存在として介入しているところです。

実際の活動としては、一人ひとりにオーダーメイドで色々なプロジェクトやプログラムを組み合わせて提供しています。カウンセリングでは彼らの抱えてきた問題を受け入れ、未来や展望、延いては諦めてしまった夢などを引き出します。そして社会に復帰した際に職を得られるようなスキルトレーニングを行い、また釈放後に社会復帰できるように身元引受人の斡旋を行います。あくまでも日本人として平和的に彼らに向き合い、受け入れ、共に人生を歩みなおす準備をしています。

またテロ組織加入者に対してもアプローチを行っています。組織からの脱退を促進するためにリーフレットを作成し、紛争がアクティブな地域を中心に、現地の軍の方々と提携をして行っています。ホットラインナンバーを載せたところ、実際にたくさんの電話がありました。半分はテロ組織からの脅迫電話ですが、半分は実際に辞めたいという電話でした。テロ組織と聞くと殺人鬼のように映ってしまうかもしれませんが、辞めたいと思っている人もたくさんいます。現地の政府から直々に要請を受け、2020年9月から2020年12月の3ヶ月間で、115名の投降が実現しており、これからもどんどん伸びていくと考えています。

なぜアクセプトインターナショナルがテロと紛争の問題に取り組むのか。「誰もやらないからこそ誰一人も取り残さない」これが原動力になっています。テロと紛争の問題は、危なすぎるから、命が危ないから、解決策なんてないから、そんな風に言われ続け、世界中が避け続けてきました。だからこそ我々がやるのです。メディアによる一部切り取られた情報では、単なる人殺しに見えるかもしれません。しかし彼らに人生で一番大切なことを聞いてみると、「結婚すること」「家族を大切にすること」「勉強すること」そんな希望を持っています。刑務所内にいる人もアル・シャバーブの構成員も、7割が30歳以下の若者です。誰一人取り残さないと同じ人権の名の下に語るのであれば、彼らも一人の人間であり、だからこそ命をかける覚悟で常に向き合っています。

これまでテロ組織の投降兵は89名、逮捕者は88名が社会復帰を既に実現しています。そしてテロ組織に近い存在であるギャングも対象にして、5年をかけて組織を解散させることができました。また日本で初めて、パリ平和フォーラムで国際的な評価を受け、やっとここまで来ることができたなと感じております。

これまで、代表の永井が大学1年の時からソマリアに足を踏み入れて活動してきました。たくさんの大人たちから、「そんな危ない問題は無理だよ」「若造に大きなことをやるのは無理だよ」と何度も言われ続けてきました。そんな我々でも、やらなければいけないという想いでやっとここまで来ることができました。彼らの人生を背負い、その先にいる人々、これまで活動を共にしてきた現地の同志、テロによって亡くなった人々、すべての命と想いを背負って活動しています。そしてテロと紛争のない社会を本気で実現したいと考えています。是非我々の仲間になっていただけないでしょうか。皆様の支援が、彼らの人生はもちろんのこと、彼らの先にある、傷付けられて失われるはずだった命まで救われることになります。ご協力により救われる命が必ずあります。

最後に、現在支援をしている人の声をご紹介いたします。

アブドラヒ21歳:組織の命令で爆弾を設置しようとして刑務所に来た。自分が行ったことに後悔していたけれど、何もできず悶々としていた。アクセプトのプログラムで、社会に出てから待ち受ける困難と心構えを学んで、夢を語り合った。釈放された今、諦めずに自分自身や社会に向き合い続けたいと思うよ。

本日は貴重なお時間をいただきまして、ありがとうございました。

卓話『わが半生の地政学 -ソ連崩壊から米中新冷戦まで-』令和3年3月22日

前スイス駐箚特命全権大使 本田 悦朗様

前スイス駐箚特命全権大使 本田 悦朗様

私は、1978年に旧大蔵省に入省して以来、6か所、計16年に亘って海外勤務を経験した。その間、ソ連崩壊や9・11同時多発テロ事件(ニューヨーク)等大事件に遭遇したが、本日は、「資本主義と世界秩序の行方」という観点から、私の体験を皆さんと共有したい。

我々は冷戦体制の下で共産主義、社会主義と闘ってきたが、1991年にソ連が崩壊して以来、現実の経済システムとしては資本主義・市場経済しかないことが示された。ソ連が崩壊して15の共和国が誕生したが、それらの新生国家は資本主義の経験がなかった。それらの国家が市場経済とそれを自律的に運営できる国家システムを構築するにあたって、世界銀行(IBRD、ワシントンDC)や欧州復興開発銀行(EBRD、ロンドン)から支援するのが私の第一のライフワークになった。

他方、我が国においては、1990年代前半のバブル崩壊によって、深刻な需要不足が、「継続的な賃金と物価の下落」をもたらしたが(デフレ)、2008年のリーマン・ショックがそれに拍車をかけた。デフレは経済縮小の悪循環をもたらすので、脱出に失敗すれば、資本主義にとって死に至る病となる。私は、2012年に発足した第二次安倍内閣のもとで、デフレ脱却を目指す「アベノミクス」と呼ばれる政策パッケージを推進するため、安倍内閣のアドバイザーを務めた。残念なことに、未だにデフレ脱却は道半ば。しかし、これを成し遂げない限り、我が国経済に明るい未来はない。これが私の第二のライフワークである。

ソ連、ロシア

1986年4月のチェルノブイリ原発事故は、私にとっても決して忘れることのできない大事件である。4月29日の天皇誕生日(当時)、私が大使館で当直をしていたところ、大使館内の電話が一斉に鳴り始めた。ほとんどが日本の記者からの電話だった。ウクライナ方面から風に乗って大量の放射能が北欧や東欧に流れ、特にスウェーデンでは夥しい放射線が出ている、とのことであった。直ちに、大使館の幹部と科学技術アタッシェに出勤してもらい、手分けしてソ連当局に照会したが、先方も全くわからない、と木で鼻をくくったような答え。ウクライナの当局が原発事故を隠ぺいしていたのだ。事故直後の5月1日には、ウクライナ当局はキエフ市民に対し、「この程度の放射線は健康に影響がないから、皆でメーデーのパレードに参加しよう」と扇動していたくらい。その時に屋外に出たウクライナの人々は相当放射線に被爆したようだ。しばらくした後、ウクライナから生徒が次々と特別列車でモスクワに運ばれてきたのを覚えている。

これを見て激怒したのが、ソ連共産党書記長(当時)のゴルバチョフ氏だ。「ソ連のシステムは腐っており、もはや機能していない」と断じた。もともと、ゴルバチョフ氏は改革意欲が強く、ブレジネフ・アンドローポフ・チェルネンコ書記長で弛緩し切ったソ連型システムに危機感を持っていたが、チェルノブイリ原発事故で堪忍袋の緒が切れたということだ。とりわけ、ウクライナ政府が事故を隠ぺいしたということが許し難く、ソ連全体に「内部告発」を奨励し、腐ったシステムを内側から改革しようとした。これを「グラスナスティ」(声を出せ)と呼ぶ。また、対外関係では、ブレジネフ氏が1960年代に、「東欧の国家主権は、ソ連の指導の下に制限される」、いわゆる「制限主権論」を宣言したのに対し(これを「ブレジネフ・ドクトリン」と呼ぶ)、ゴルバチョフ氏は、「東欧は自由だ。自分で活路を見つけろ」と宣言した。これは、フランク・シナトラのヒット曲にちなんで、俗に「シナトラ・ドクトリン」(すなわち、「マイ・ウェイ」)と呼ばれた。それ以外にも、節酒令(ゴルバチョフ氏は下戸)、協同組合や合弁企業の是認(協同組合のレストランは国営に比べて美味だった)、新思考外交など新機軸を次々と打ち出した。これら一連の改革は、「ペレストロイカ」(建て直し)と呼ばれた。わが国の「アベノミクス」よりもずっと広範囲にわたるものだった。双方とも、実現が非常に困難だということは共通しているが。

「シナトラ・ドクトリン」で東欧諸国の社会主義がドミノ倒し的に崩壊するたびに、私は、故中曽根首相の命で東欧諸国に出張し、レポートを書いていた。最も印象的だったのは、チャウシェスク大統領が銃殺された直後に訪れたルーマニアのブカレストである。街は焼け焦げ、日本大使館の壁には銃弾の跡が残っていた。そして、1991年、ついに共産主義総本山のソ連が崩壊した。

1991年夏、ゴルバチョフソ連邦大統領は黒海近くの保養地で休暇を楽しんでいた。ゴルバチョフ大統領がモスクワを留守にしているのを利用し、パブロフソ連邦首相(当時)らいわゆる保守派がクーデターを引き起こしたのだが、結局、民衆の支持を得たロシア共和国のエリツィン大統領が保守派クーデター軍を説得し、ほとんど無血で鎮圧、ゴルバチョフソ連大統領を救出したのである。その結果、モスクワには二人の大統領、即ち、ロシア共和国のエリツィンとソ連のゴルバチョフが併存することになったのだ。しかしながら、二人の力関係は明瞭である。「助けた大統領」エリツィンと「助けられた大統領」ゴルバチョフと。ソ連の運命は決まった。

ここで、チェルノブイリ原発事故と新型コロナウィルスのパンデミックの共通点を指摘したい。隠ぺいである。ウクライナと中国政府はその失敗を可能な限り覆い隠そうとした。そのため、本来避けられたはずの大量の被害者を出してしまった。それがソ連では崩壊の遠因となった。中国政府は、極めて深刻かつ重大な事態を招いたことを反省し、原因を究明し、公表すべきである。

中央アジア

さて、ソ連型独裁体制・計画経済が崩壊した後、旧ソ連を構成する共和国や東欧諸国の一部ではシステムの空白が生じた。ソ連崩壊によって、経済規模は崩壊前の約半分に落ち込んだ。世界銀行の金融セクター専門家として大蔵省から派遣され、ウズベキスタン・カザフスタン・トルクメニスタン・アゼルバイジャン担当となったのは、まさにシステムの空白が生じた旧ソ連に市場経済を構築するためである。明治維新後、近代国家を目指した日本が海外から専門家を招いたのと似ている。私の仕事は、中央アジア諸国で、中央銀行・商業銀行システム・証券市場を創り、国際標準の会計システムを導入することの支援であった。国づくりの醍醐味を味わうことができたのは、本当に幸運だった。

ここで、是非、皆さんに知っておいてほしいことがある。日本人は世界で尊敬されているという事実だ。

ウズベキスタンの首都タシケントにナボイ劇場という堂々とした立派な建築物がある。モスクワ、サンクトペテルスブルク、キエフと並んでソ連4大劇場と言われたその建物は、戦後、ソ連に抑留された日本兵が建てたもので、タシケントに出張するたび、その劇場を訪れるのが楽しみであった。1966年のタシケントの街が崩壊するぐらいの大地震にも見事に耐え、現在でもその威容を誇っている。その近くにあったロシア人が建てた建築物は崩壊したそうだ。ウズベキスタンでは子供を教育するとき、「日本人のように学び、日本人のように働け」と教えるという話を聞いた。まじめに働いている日本の工兵とウズベク人女性の間にロマンスが生まれたという話もある。そういわれてみると、ウズベク人は日本人と顔が似ている。その劇場にプレートが嵌められており、ソ連時代は「日本人捕虜がこの劇場を建てた」と記してあったそうだが、独立後、カリモフ大統領(当時)は、「ウズベキスタンは日本人と戦ったことはないし、捕虜にしたこともない」と言って、「極東から強制移送されてきた日本国民がこれを建てた」とプレートを書き換えたそうだ。この劇場は、日本とウズベキスタンの友好のシンボルとなっている。当時の日本人の魂は今でもタシケントで生きている。

ニューヨークでの9・11同時多発テロ事件

私がニューヨークに着任した直後の2000年8月、日本銀行はデフレの真っただ中で、これまで政策金利を限りなくゼロに抑えてきた「ゼロ金利政策」を解除してしまった。即ち、金融引き締めを行った。これが政策として全く間違ったものであることは一目瞭然である。その時から、ニューヨーク連銀のスタッフとの議論を通じて、私のデフレとの闘いが始まった。日本国内でも、学習院大学の岩田規久男教授(後の日銀副総裁)他が強烈にデフレ脱出の重要性を説き、政策提言を行ったが、少数意見にとどまった。その政策提言が実現するのは、アベノミクスが開始された2013年に入ってからである。これほどまでに遅れてしまったのは、日本にとって不幸としか言いようがない。なぜ、デフレで消費や投資の需要を喚起しないといけないときに、プラスの金利や均衡財政、即ち、財政・金融の引き締めにこだわるのか、どう考えても理解できない。しかも、デフレ不況の中で、金融機関の不良債権処理を一挙に進めるという。日本の政策の正当性を海外に向かって発信するのが私の仕事であったが、私は正直、頭の中では苦しんでいた。今でも、アベノミクスの成果が元の木阿弥になってしまわないかと懸念している。

2001年9月11日、とんでもない大事件が起こった。9・11同時多発テロである。

当時、私のオフィス(総領事館財務部・財務省ニューヨーク事務所)はウォール・ストリートや世界貿易センタービル(WTC)から至近距離にあった。そのWTCにテロリストに乗っ取られた民間航空機が突入したのである。違法移民が現地でも働いていたので、正確な犠牲者の数は未だに不明だが、確認された犠牲者は3000人弱、日本人だけでも24名の尊い命が失われた。

邦人の犠牲者(行方不明者)のほぼ全員が金融機関の職員だったので、わが財務部が領事部とともに犠牲者とその御家族のケアを担当した。しかし、巨大な旅客機が激突した衝撃とジェット燃料に火が付いた高熱で、WTCだけではなく、周辺のビルも完全に倒壊してしまい、ご遺体が見つからない。日本から来ていただいたご家族にも疲れと焦りの表情が見え始めた。東京から小泉総理や安倍官房副長官(ともに当時)らが来られ、ご家族と懇談されたのだが、ご家族の一人がこう話された。「息子は単なる事故の犠牲者ではない。ニューヨークという世界のビジネスの中心で、名誉ある戦死を遂げたのだ。父親として、それを誇りに思う。」小泉総理の目には涙があふれ、声はかすれ、私はメモをとれなかった。

ご家族の間で、いつ帰国するかという話が持ち上がった。ご遺体が見つからないうちは帰国できない、という意見もあった。しかし、ビル全体が半分溶けてしまった状態で倒壊しているので、御遺体の発見はいつになるかわからない。そこで、私はご家族の意見も聞いたうえで、ニューヨーク市警察(NYPD)と相談し、グラウンド・ゼロと呼ばれる倒壊現場の土をいただき、それを遺骨の代わりに持ち帰っていただくことにした。当然、同僚からは、それは検疫法違反ではないか、という疑問がでた。しかし、現地の土はご遺骨の代わりに持ち帰っていただくもので、検疫法の趣旨からすると問題ないと私の責任で判断した。ご家族には、何かあったら私に連絡するようにお願いしていたが、何の問題もなかったようだ。

大使としてスイス駐在

2016年6月、私は大使としてスイスの首都ベルンに着任した。早速、日本を代表する大使として信任してほしい、という陛下からの信任状をスイス政府に奉呈した。写真はその時のものである。

スイス人は、日本人と似ていると感じた。まず、誠実で清潔であり、一人当たりのGDPは世界のトップクラスであるが、傲慢なところがなく、謙虚である。日本人との国際結婚が多いのは頷ける。また、今回の講演のお世話をいただいた鳥居様のノバルティスをはじめ、最先端の優良企業が目白押しであるが、他方、古くからの伝統を重んじる国でもある。その一つが、「直接民主制」である。

直接民主制と言われるものには、イニシャティブ(住民提案)レファレンダム(住民投票)があり、スイスでは後者は年に4回行われている。これは日本でも地方自治で一部導入されている。スイスのユニークなところは、州民が全員一つの広場に集まり、一挙に州法や州議会議員選挙を挙手でやってしまう州が今でも残っているところにある。これはランツゲマインデと呼ばれ、今では、全26州のうちアッペンツェル・インナーローデン準州等2州だけに残っており(年一回、4月の最終日曜日)、観光化している。街中のホテルは観光客で満室となる。投票の前には、古式豊かな伝統衣装を着飾った州民が街を行進する。投票の秘密は全くないので、議員の選挙等では、挙手した瞬間に手を下す人が多い。賛否を見られたくないからであろう。私は1時間余り見学したが、議長が挙手の数を数えるのを見たことがなかった。地元の人に聞いてみると、たまに賛否の数を数えることがあるそうだ。のどかな議会風景である。

現在の地政学

米大統領がトランプ氏からバイデン氏にかわり、今後の世界の米中関係が注目されている。トランプ大統領時代から、米中関係は困難さを増し、単なる貿易戦争だけではなく、世界の覇権争い、さらには、「自由・民主主義・人権尊重・法の支配」対「独裁体制・国際法や人権無視・領土拡張主義」といったイデオロギー対立にまで発展している。

また、中国は陸と海のシルクロード、即ち「一帯一路戦略」によって、発展途上国を債務漬けにし、その債務免除と引き換えに99年の租借権をとったり、中国からの輸出を押し付けたりと自らの拡張戦略の手段としている。我々、自由民主主義陣営は、長年、「中国もある程度経済発展すれば民主化努力が始まるだろう」という期待をもって「関与政策」(engagement)で支援してきたが、それは現在のところ、習近平主席によって、完全に裏切られている。もはや、「封じ込め政策」(containment)しかないであろう。バイデン政権も基本的にはその方針を引き継いでいる。中国の領土拡大主義によって現実の危機となっている尖閣諸島の領有権や、台湾危機、南シナ海の国際法を無視した基地化等を考えれば、我が国もとるべき道はそれしかない。「安全保障は米国と、経済協力は中国と連携すればよい」という意見もあるが、あり得ない。対中国投資なども一線を超えることは許されないであろう。我々が、経済・安全保障で連携する主軸は、米国やインド太平洋諸国であり、環太平洋であり、EU・英国等であろう。それが現実である。

(了)

卓話『混迷の時に僧侶となって』令和3年3月29日

僧侶、毎日新聞客員編集委員 福本 容子様

僧侶、毎日新聞客員編集委員 福本 容子様

私は1962年に熊本で生まれ、昨年の10月4日に東京の豊島区にあります本門佛立宗 遠妙寺で得度をいたしまして、僧名を「清容」(せいよう)とつけていただきました。得度というのは、お坊さんになるということです。

私が得度に至りました一番大きなきっかけはフィリピンの存在でした。遠妙寺に所属していたご信者さんが、フィリピンで仕事をされており、その人を経由して本門佛立宗が広がり、あっという間に数百名の信徒ができました。しかし、布教活動をされていたお坊さんが高齢になり、急遽家族で日本に戻ってくるということになったのです。まだフィリピンでの活動が新しかったものですから、後を継ぐい人がいないということになりました。信仰に言葉はないのですけれども、やはり日常的なやりとりをするには、英語が不可欠ですので、周りを見渡しまして、自分がさせていただくしかないのかなと思いました。

フィリピンには上流階級といいますか、お金持ちの方はいらっしゃいますが、国民の大半が貧困なのです。街を歩いていますと道路の端の水溜りで顔を洗っていたりするような光景もよく見かけました。家も窓ガラスが無いお家がほとんどで、竹を編んだような家が多いのです。すぐに建て替えられるといえば、そうなのですが、台風や地震で人的にそれから物質的にかなり被害を受けてしまいます。ボランティアで何回かフィリピンに行き、人と関わり、縁が強くなって、もっと何かしなければいけないという思いがありました。

もう一つ、日本とフィリピンは東南アジアの中でも非常に結びつきは強いのです。戦争で日本の兵士が一番命を落としたところでもありますし、自分の国が大国の戦争の場になったというだけで、市民が巻き込まれて100万人以上も亡くなりました。これは自分ごときが供養して何になるということではないのですが、フィリピンの方たちに何かして差し上げることが出来ないものかという思いは当然湧きました。

日本も今コロナで大変なのですけれども、フィリピンでもコロナでロックダウンが始まり、外出がままならないことで仕事ができなくなり、更に貧困が厳しくなりました。

コロナ禍で私は、この世はやはり無常だと感じました。自然災害はある特定の地域でその瞬間起きるのですけれども、全世界が一度にひとつの災いに巻き込まれるというのは、今回が戦争以外では初めてではないか、試練ではないかと思っております。

誰もがある種平等にリスクを負ってしまう、勿論お金がある人はそれなりの対策も取れるかもしれませんが、でもそれは万全ではないということです。そして人間、科学の力には限界があるということが分かってはいても、こういう事態になって初めて、何も出来ない、会いに行けない、何も持って行けない、そういう無力さを感じさせられたのではないかと思います。

新しい薬を開発したり、人を助けたりという人間の力は、限りない素晴らしさはあるのですけれども、万全ではありません。やはり人間というのは不完全だなということを改めて感じさせられました。

そして自己中心であってはいけない、自分だけ助かればとか、自分だけ良ければということでは、決して救われることにはなりません。やはり我々は繋がっていますし、自分だけが、ということは通用しないということが分かりました。

これからどうやって生きて行くかということを考えてみたのですけれども、宗教の役割というのは大きいと思うのです。ただ、そう思われる方は少ないかもしれません。それはこれまでの宗教、あるいは宗教に携わっていた人間の怠慢でもあるのかなと、自省を込めて思います。どうしても仏教は冠婚葬祭の中でも特に葬儀の印象が強くなってしまっていて、生きている人の日常の苦しみに触れていない、そこに手を差し延べていないところがあります。特に日本は宗教的な基盤がありませんので、何かあると、癒されようとしてスピリチュアルなものを探そうとする事があると思うのです。例えますと癒しはマッサージです。とても重たい病気になって、そこをマッサージすると一時的に痛みが和らいだり、落ち着いたりして、抵抗力が上がったりすることがあるかもしれないですけれども、病巣そのものに働きかけるものではないのです。

悩んでいる、困っている他の方を助けることによって、自分も仏様の功徳を積み、功徳が自分に廻って来て、自分もご利益をいただいて幸せになれる、それがご信心です。

やはり人間というのが、自分の力を過信し、科学技術に委ねて行き過ぎた結果、そういう精神的なもの、それから人を助けたいという、本来人間に備わっているものが少し置き去りになっていたのではないかと思います。このコロナ禍を機会に、生き方を問われているのではないかと思っている次第でございます。

ご清聴ありがとうございました。



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