卓話
2019年7月
卓話『革命家・予言者としての松下幸之助』令和元年7月22日
公益財団法人松下幸之助記念志財団 専務理事 松下政経塾 副塾長
イマジニア株式会社 取締役会長 ファウンダー 神藏 孝之様
今の若い人達に、「繁栄を通じて幸福と平和」と言っても、そんなの当たり前じゃないかという話になると思いますが、松下幸之助が「繁栄を通じて幸福と平和」という話をしたのは1946年、8,000万人の人口に対して戦死者が310万人、日本の50数の中核都市が焼け野原になった時代です。当時は相手する人はいませんでしたが、そんな中で始まったのがPHPです。
松下幸之助は1951年、占領下の日本の時代が終わり独立国になるのと同時に、56歳で松下電器産業の再創業を宣言し、1962年には日本で一番成功した実業家として『TIME』の表紙を飾りました。1968年には日本がGDPの経済大国第2位になり、この瞬間に「繁栄を通じて幸福と平和」が実現します。松下電器産業は家電の普及にかなり貢献し、1960年代後半には「経営の神様」とまで言われるようになりました。
1979年、エズラ・ヴォーゲルが「ジャパン アズ ナンバーワン」を出版しました。日本人はそのまま真に受けますが、松下幸之助は、教育や道徳、モラル、また財政も大赤字で大変だという発言をし、そこで私財70億円を投じて松下政経塾を設立します。しかし1980年代のバブルを経て、1人当たりGDPが先進国かつ大国で1位となる1995年までには間がありますので、これも実態上あまり相手にされなかったのではと思います。しかし1979年から40年が経過した現在、日本の財政赤字は1,000兆円をはるかに超え、教育や道徳、モラルも劣化しています。まさに、あの時松下幸之助が言った通りになっています。これが予言者としての松下幸之助の中身になります。
松下幸之助は小学校を中退し7歳で船場に丁稚奉公に出されました。10代で丁稚奉公をやっている間に母親が亡くなり、父親が亡くなり、お姉さんを残して兄弟も皆亡くなってしまいます。悲哀と呻吟を舐めつくした人生を送っていました。ここが彼の人生の中での大きなダイナミックケイパビリティになります。丁稚奉公の体験と、船場のベースの哲学である石田梅岩の心学、心学の基となる武士道が重なりあう中で、反骨精神とモノにとらわれない心の両方を身に着けてきたのではないでしょうか。
松下幸之助はなぜ政経塾を設立したのでしょうか。丁稚奉公から必死に独立し、松下電器産業を立ち上げ一生懸命頑張った結果、国家経営の失敗に巻き込まれ、従業員が不幸になり、自分も不幸になり、国民も不幸になり、日本が焼け野原になってしまったという実体験がベースにあります。1948年には一度自殺を考えています。しかし死にきれず、そこから再創業まで必死に出てきました。ですから、政治に対する公憤の出発点は敗戦です。敗戦になった瞬間にインフレが起こり、GHQから制限を課せられ戦犯扱いされ、これほど理不尽なことはありませんでした。この時に、国とはどういうものなのかを考え始めたのだと思います。
松下幸之助の政治の理念の一つは無税国家でした、日本で無税国家論があったことを知っている人はほとんどいないと思いますが、当時一番真剣に無税国家に反応したのが、シンガポールのリー・クアンユーです。生産性が良くて相続税がなく、所得税と法人税が安いなんていいに決まっているじゃないかということで、彼はテマセクとGICを運営し、シンガポールは無借金にして世界最低税率、GDPの2倍から3倍の純資産を持つ国となりました。リー・クアンユーは無税国家に限らず、敗戦後の日本を研究しぬいた最も著名なうちの一人で、彼は、60年代の中心にいたのは松下幸之助だったと言っています。
そしてもう一人、松下幸之助の政治の理念を実践したのが、1979年の国交回復時に当時の最高実力者だった鄧小平です。戦後30年は毛沢東、そして経済優先30年という図式を引いたのが鄧小平です。彼は日本へ来て松下幸之助に学びました。そして松下のテレビ工場を中国につくってくれないかということで、松下幸之助が単体で中国に渡り、2年後にカラーテレビの工場を天津につくりました。鄧小平の改革はそのあとあまりうまくいかず、1989年の天安門事件の後にもう一度経済開放にアクセルを踏みます。6万人の寒村都市であった深圳を1,200万人にし、香港のGDPを上回る結果を出しました。これは、松下幸之助の「商売がわかる役人、商売がわかる政治家じゃなきゃだめだ」という言葉の結果です。同じ1億円を使っても、頭の悪い人が使うと100万円にもならないが、賢い人が使うと10億にも100億にもなる。鄧小平は資本主義とはなにかと考え、儲かるための秘訣を松下幸之助から学びました。二人はアジア人ではあるものの、日本人ではありません。この辺が非常に悲しい部分ではあるのかなと思います。
中国の清華大学や北京大学は有名ですが、中国での圧倒的な最高学府は、中国共産党の幹部を集めて再教育をし、省庁に送り込んで、そこで成功した人が偉くなるという仕組みの中央党校です。その中央党校の中に松下幸之助発言集45巻があります。中国がまったく最貧国だった頃に松下幸之助を題材にし、商売やビジネスがわかる共産党員をどのように作り上げるかを研究しました。
本日お話をさせていただきたかったのは、松下幸之助は悲哀と呻吟を一本の軸で味わい尽くし、これが反骨精神になった。そして石田梅岩からはじまり一つの思想性を身体で学び、もう一つの軸として持っていた。一度国家経営を誤り痛い目にあってしまったため、ものすごく真剣に、パブリックマインドを持たざるを得なかったのだと思います。自殺寸前まで追い込まれ、考えざるを得ませんでした。そして、鄧小平やリー・クアンユーがやってきて、リスペクトしてくれた時代、その昭和の原型の最後の部分の一人が松下幸之助です。
ありがとうございました。
卓話『これからの都市経営―大阪の改革とスマートシティ戦略―』令和元年7月29日
慶應義塾大学 総合政策学部教授 大阪市、大阪府特別顧問 上山 信一様
今日は大阪がどう変わってきたのかということを題材にしながら、東京の今後についても考えていただくヒントをお話ししたいと思います。
大阪を衰退から再生させようという機運がでてきたのは2005年頃です。大阪市役所の不祥事で市民が怒り、市役所改革が始まりました。
大阪では、大企業がどんどん本社を東京に移し、法人税収が減る。自治体の財政がきびしくなり、インフラ投資も遅れる。そうするとますます大企業がいなくなります。そして所得が下がり、失業者が増えると所得税も入らない。一方で生活保護などの社会保障にお金がかかる。そうすると自治体はもっと赤字になる。全体が悪循環になる負のサイクルに最近まで入っていたのです。
どうやって都市再生をしたのかですが、2005年からの7年は不祥事をきっかけに無駄な出費を削り、情報公開を徹底した。特に、不良債権の処理です。関西空港の借金、加えて大阪市が作ったWTC(大阪ワールドトレードセンタービルディング)と、これに対抗して大阪府が関西空港の脇に作ったリングゲートタワーも不良債権でした。この3つの不良債権に加え、大阪市の市役所と労働組合の癒着問題といわゆるエセ同和があった。それで大阪に投資するのに、ネガティブな印象が非常にありました。
これらを2005年からの改革で大掃除をしました。関西空港は伊丹空港と合併をして、健全財政になり全国で一番伸び率が高い状態になっております。そしてこの10年は府と市が協力してインフラ投資に力を入れ、関空アクセスの為の鉄道や、高速道路の対策が一気に進んでいきました。これが大阪が非常に好調になった最大の原因だと思います。それをやりつつ、改革を持続させる仕組みとして、大阪府と大阪市を一緒に統合する都構想や、教育予算の大幅増など。さらに、地域政党をつくって大阪の現場の問題意識を国政にぶつけていく。つまり大阪維新の会ができて国政進出運動をした。
2008年には橋下徹さんが知事になり、大阪府庁の改革をします。最初は財政再建と情報公開で、いわゆる利権的な政治を脱却する。これは企業でいうリストラです。そこから財源を捻出して、教育のための投資、外資系企業の減税などの財源になりました。
民営化については、地下鉄、バスを黒字化、株式会社にもした。水道、下水はコンセッション化、ごみ処理は民営化、病院、博物館は独立行政法人にする。また幼稚園保育園所の統廃合と民間移管が始まっています。これは世界の標準では当たり前です。ちなみに、東京は全部公営です。日本の自治体はいろんな事業をまだ直営で行い、膨大な稼働率の低い設備を抱えている。大阪はこれが今、激減しつつある。一方、東京はまだ昔のままです。
さて、大阪の結果がどうなったかです。情報公開ランキングは2010年頃からだいたい全国一位になっていて、役所の資料はほぼ全てホームページに載っている。それから子供教育予算を激増させて、教育費の無償や保育所拡充などに投資しています。大阪の最近の景気動向は全国の中でも非常によくなってきています。2017年のデータでは地価上昇率全国トップ5が全部大阪です。やっと正常な評価に戻ったという言い方もできる。開業も増えて人口も流入し、大阪市は政令市の中で流入が日本一です。学力もだんだん上がり始めています。高校のドロップアウトが減ったり、進学率が上がったり、お金をかけるとやっぱり変わる。生活保護もついに減り始め、全国一伸び率が高かったのが、全国一減少率が高いという状況に変わっています。
東京は、おそらく大阪より10年遅れたペースで色々な改革が始まるのではないかと予測をしています。私は東京と大阪には改革の時差が10年あると思います。というのは、2015年から全国の人口は減っていますが、東京だけまだ増えている。そのため欧米の大都市が過去30年間に経験し、大阪がこの10年やってきた改革に目が行っていないと思います。
本当は今のうちからメスを入れていけば、向こう30~40年の礎になると思うのですけれども、そこは人間の性(さが)の悲しいところで、大阪のように一回どん底に落ちないと、なかなか変われないのでしょう。しかし大阪のこういう例もあります。六本木ロータリークラブの皆さんも、10年の時差を意識して今から色々問題提起をしていただければと思います。
ご清聴ありがとうございました