卓話
2015年11月
卓話 『帝国ホテルの歴史とおもてなしの心』2015年11月9日
(株)帝国ホテル 代表取締役会長
小林 哲也様
帝国ホテルは1890(明治23)年11月3日に開業し、おかげさまでこの程125歳の誕生日を迎えました。当時、不平等条約改正のために欧化政策をとっていた明治政府にとって、外国の賓客を招くのに迎賓館としての西洋式ホテルの建設は急務であり、国の要請によって建てられました。
初代の建物はドイツネオルネッサンス風の木骨煉瓦づくり3階建て、客室数は60室でした。開業当初はとても高く、伊藤博文閣下など一部の日本人を除き、宿泊客の多くが外国のお客様であった時代が長く続きましたが、日清日露の戦勝景気以降は順調な経営でした。初期の支配人は何代か外国人が務めましたが、やはり日本人の支配人が欲しいということで、ニューヨークの骨董商に勤務しており、社交界にも通じた林愛作という人物に来てもらいました。着任早々に新館の建築が計画され、浮世絵を通じた縁で林の知己であった新進気鋭の建築家フランク・ロイド・ライトに設計を依頼したのです。ライト館は1923(大正12)年9月1日に客室数270室でオープンしましたが、その日に関東大震災が発生しました。しかし建物はほとんど無傷で、当時の支配人はホテルを各国大使館や新聞社などに提供し、日比谷公園に溢れた難民に炊き出しをしたと語り継がれています。
そのライト館が老朽化したため建て替えの発表をすると建築学会を中心に大反対運動が起こりましたが、最終的には当時の佐藤栄作総理が明治村への移築を決断して落着しています。そして1970年、帝国ホテルは約800室のホテルへと生まれ変わりました。
帝国ホテルで始まったホテルのサービスは沢山あります。ライト館が出来た年、周辺の神社仏閣が地震で倒壊し結婚式をする場所がなくなったことを受け、当時の支配人が、それではホテル内に神殿を設置して結婚式をできるようにしようということで、今のホテルウエディングの原型ができました。バイキングもそうです。後の総料理長の村上信夫が北欧で料理を学び、帰国後作ったのがインペリアルバイキングという名前のレストランでした。店名の由来は、当時カーク・ダグラス主演の海賊映画「バイキング」が上映されていて、北欧の海賊は食欲旺盛というイメージからだったようです。やがてバイキングは食べ放題の代名詞となり全国津々浦々に浸透したわけですが、ただこの言葉は日本でしか通じません。
帝国ホテルは誕生した時からブランドであり、それを先達が125年間守って来てくれました。そして我々世代がいかにいい形で次の世代にバトンタッチするかが、今のマネジメントの責務だと思います。「変えるべきものを変え、変えてはならないものを守る」という言葉が帝国ホテルの中で語り継がれています。大事なことだと思います。
よいホテルの条件とはホテルを構成する3つの要素、ハードウェア、ソフトウェア、ヒューマンウェアの3つがそれぞれ高品位にバランスよく調っていることであると私は思います。そして強いて言えばハードとソフトを動かすヒューマンが一番大事ではないか。最後の決め手は結局、人です。
民間外交の一翼を担い観光立国の実現に貢献するため一所懸命ホテル業界を盛り上げていきたいと思っています。ありがとうございました。
卓話 『私の女優人生』2015年11月2日
女優
岩下 志麻様
私は銀座4丁目で生まれ、両親とも新劇の俳優でした。中学のときからお医者様になりたくて猛勉強したのに病気で高校を留年してしまい、しょんぼりしていたところに父の知人のプロデューサーよりNHKのホームドラマの「バス通り裏」に出演のお話を頂きました。本当の高校生を探しているとのことで興味半分で学校帰りに鞄を持ってスタジオに通いました。
当時は生放送なので緊張して最初のシーンはもう手が震えて、コップが口に行かずに耳に行ってしまい、結局カメラマンが撮らないようにしてくださいました。そしてこのドラマをご覧になった木下恵介監督が松竹に誘ってくださったのです。
松竹で何本かの映画に出演したあと小津安二郎監督の「秋刀魚の味」に出演させて頂きました。監督は自然体がお好きで小津監督のリズムに入り込まないとなかなかOKが出ません。どこが悪いかおっしゃらない。とにかく出来なかったのは巻尺のシーンで、これは失恋したことを台詞でなく巻尺を巻くことで表現しようという小津先生の意図で、右手の人差指に2回、左手の人差指に2回半、次は右手の人差指に2回というご指示だったんですが、これができなくて120回ぐらいテストをしました。映画終了後お食事に誘われて、「志麻ちゃん、人間は悲しいときに悲しい顔するもんじゃない。人間の喜怒哀楽はそんなに単純ではないんだよ」とおっしゃって、すべてが理解できました。そのお言葉が私のそれからの演技の原点になっております。
そしてその後の山本周五郎さんの原作の「五瓣の椿」で女優をやって行く決心がやっとつき、その後昭和42年に私は結婚いたしました。当時は女優は結婚即引退でしたので猛反対されましたが、結婚して更に仕事に意欲的になり、篠田と独立プロを作りました。そして篠田の演出で「心中天網島」でおさんと小春の二役をやらせていただきました。予算がなくて普通のセットを作れないので、美術の方が浄瑠璃とか浮世絵の字を拡大して床や壁に貼り、大変前衛的な空間を作ってくださいました。これが大ヒットして私たち独立プロの基盤ができました。その後、子どもに恵まれ、女の子を出産いたしました。子供は可愛くて可愛くて、仕事に行くときは引き裂かれる思いでした。
30代後半、水上勉さん原作の「はなれ瞽女おりん」で盲目の女旅芸人の役をやらせていただきました。半年ほどの準備期間、顔を洗うことから食事をすること、お化粧をすること、家の中を歩くことまで全部目をつむって暗闇に慣れることから始めました。この映画で第1回アカデミー主演女優賞をいただき、自分の垣根を一つ越えることが出来、想い出のある大好きな映画です。
そのあとが「極道の妻たち」です。今までの役と全然違うので手探りでしたが、初日から撮影所の前に子分役の方達が10人位並んで、「アネさんおはようございます」ってあいさつしてくれるんです。それで私は段々極妻の気分になって、猫背でいたのが胸を張って歩くようになりました。多分、監督の陰の演出だったと思います。極妻は10本のうち8本主演させていただいて、私の大切な作品になりました。
映画は130本近く、テレビはその倍ぐらい、本当にあっという間で50年以上女優を続けてしまっています。これからも前向きに頑張りたいと思います。
ありがとうございました。