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国際ロータリー第2750地区 東京六本木ロータリー・クラブ The Rotary Club of Tokyo Roppongi

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卓話

2024年2月

卓話『シェフのヨーロッパ奮戦記 ヨーロッパ修業時代』令和6年2月5日

ドイツ食文化研究家 野田 浩資様

ドイツ食文化研究家 野田 浩資様

わたしは1947年8月、東京は品川で生まれました。六本木の東京日産ビルにありましたチェコスロバキアレストランのキャッスルプラハで働いていましたが、マネージャーの紹介で25歳の時にヨーロッパに渡りました。1973年、ちょうどオイルショックの真っただ中で、360円の為替が変動相場制になった年です。日本の経済が高度成長をし始めた頃でしたが、ヨーロッパではまだ日本人はよく知られていませんでした。日本の商社マンはたくさん行かれていましたが、わたしのように料理の修行で行く人は非常に少なかった時代で、また飛行機が非常に高かったことから、わたしは横浜からソビエトの船に乗り、5日間かけてドイツへ行きました。

ドイツでは3本の指に入るフランクフルトのフランクフルター ホフというホテルで調理師として配属されました。調理場には50人近い人間がおり、フランスやイギリス、イタリアなど、様々な国の人たちが一緒に修行をしていました。ですからトラブルも多く、いざこざに巻き込まれることもありました。また言葉も分からないわたしでしたので、ナッツを投げつけたり、お尻をつねったり、蹴とばしたり、足を踏んだり、そのようなことは日常茶飯事で、常に我慢の連続でした。カチンときて手が出てしまったこともあります。ヨーロッパに行く前は手を出したら強制送還になると言われていたので非常に心配しましたが、なんのお咎めもありませんでした。小さい日本人にやられたとは言いにくかったのだと思います。貸したお金が返ってこなかった時には調理場の裏でボディに一発入れたこともありました。実はわたしは元プロボクサーで、小さくても腕には自信があったし、負けん気も強かったのです。ある時殴り合いの喧嘩を止めて2人を投げ飛ばし、空手マンだという噂が流れたこともあります。ちょうどブルースリーの映画が全盛だった頃でした。

いざこざの多さ、また親しくしていた人が辞めてしまったことで、わたしもフランクフルター ホフを1年で辞め、料理の王様と言われていたエスコフィエとリッツが経営していたサボイホテルと契約をしました。しかし外国人枠がないので労働許可が取れないと言われ、働くことができませんでした。それからベルギーで働いている日本人の紹介で仕事が見つかり、絶対にビザが取れると言われて契約をし、ベルギーに行くことになりました。しかし1974年の9月13日、ドイツの赤軍がオランダのハーグでフランス大使館を乗っ取るという事件が発生し、日本人に対するビザが取れなくなってしまったのです。すでにビザは切れているので焦りました。もぐりで働けるレストランを探して働きだしましたが、やはり労働許可がない人間を雇うとレストラン自体が罰を受けることになるので、1ヶ月で辞めることになりました。その後デュッセルドルフにあるフランクフルター ホフの姉妹ホテルであるパークホテルで働き始めました。その後も3ヶ月、1年のビザが取れたのですが、パークホテルの社員寮があった場所は治安が悪く1年半で辞めることにしました。ここでもいざこざがありまた手を出してしまいましたが、彼は「俺にボクシングを教えてくれ」と言い、いい友達になりました。デュッセルドルフは日本の商社が多く日本人が一番多い町で、周りのドイツ人も日本人に対する見方が全然違います。そういう面では非常に生活しやすい場所でした。

当時仕事を探すには、紹介か手紙を出すという手段しかありませんでした。今は日本人というと喜んで働かせてくれますが、当時日本人は魚を生で食べる野蛮人だと言われることが多く、日本人の料理人はやはりすごく下に見られていた時代でした。

あちこちに手紙を出し、ブリュッセルの有名なホテルで働くことになりましたが日本人に貸す部屋はないと言われ、ここでも人種差別を感じました。最終的に日本に行ったことがあるというオーナーの家に住むことになり、1年を過ごしました。その頃デュッセルドルフで殴って仲良くなった彼がわたしを追いかけてブリュッセルに来て、有名なシェラトンホテルで働きだしたことから、わたしも契約が終わってからシェラトンホテルで半年間働くことにしました。シェラトンホテルはシェフがドイツ人、副料理長がスイス人で、インターナショナルでした。上に立つ人が外国人だと、他の外国人に対しても思いやりがあるのです。次に行ったモナコでは、オテル ド パリという世界的に有名なホテルで、夏場の3ヶ月だけ営業するモンテカルロスポーティングクラブのレストランで働いたのですが、そこでの送別会の際にもらった色紙にベルギー人が「外人帰れ」という日本語を書きました。歴史的に支配された経験があるので、外国人が嫌いだったのだと思います。その後ムーベンピックというスイスで一番大きなレストランチェーンが日本に進出することが分かり、スイスのチューリッヒに行きましたが、スイスもベルギーと似ていて、やはり親しくなっても親しくないような印象を受けました。中立国で周りの国が戦争ばかりしているので、外国人が嫌いだという感覚があるのだと思います。同じヨーロッパでもなかなか一つになれないのは、色々な背景があるのだと思います。一度ドイツ人とスイス人の喧嘩があり、最終的にスイス人が出す言葉はヒットラーでした。「お前の国にはヒットラーがいた、お前は国に帰れ」ドイツ人はもう何も言えません。歴史の怖さをすごく感じた出来事でした。

1982年に新宿のセンタービルにドーム型のレストランムーヴェンピックがオープンし、初代シェフとして働きはじめました。その後はスイスにいた当時のマネージャーが東京のアメリカンクラブに入ったことがきっかけでわたしもアメリカンクラブに行き、2年後には世田谷に自分でビストロをオープンしました。ちょうど日本でビストロがブームの時で、色々な雑誌でもビストロやシェフがクローズアップされていた頃です。ドイツ語、英語、フランス語、日本語でメニューを書いていたら外国の方が多く来るようになり、そのうちにドイツ文化会館の首脳から、ドイツ文化会館のカフェを、ドイツ文化を紹介してくれる人に貸したいというお話をいただき、そこで初めて本当にドイツ料理というものを勉強するようになりました。それから2年後にベルリンの壁が崩壊し、次の年にドイツ統一1周年記念パーティーを任されることになりました。その後はメルセデスベンツから、本社があるビルに出店するようにとのお話があり、ツム・アインホルンというレストランで28年、そして昨年わたしはリタイアをした次第です。

やはりわたしも最初は色々な国、色々な人種の坩堝で常に危機感を感じていました。その国の事情を知るにはその国の言葉をある程度知らなければいけませんし、自分の中では戦争だという気持ちでやってきました。

料理の修行はとても厳しく、しかしその中で生き残ることができた人たちが今でも生き残れているのかなと思っています。

本日はご清聴ありがとうございました。



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