「楽しく一緒に気分よく」

国際ロータリー第2750地区 東京六本木ロータリー・クラブ The Rotary Club of Tokyo Roppongi

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卓話

2020年11月

卓話『ダイヤモンドプリンセスから無事帰国、85歳コロナ禍奮闘記「心折れて100歩歩けない」さあまた自分の人生生き抜きます』令和2年11月9日

(株)カラー集団トータリア 代表 門田 真乍子様

(株)カラー集団トータリア 代表 門田 真乍子様

3,800人の乗員乗客約20%の712人がウイルスに感染したクルーズ船から元気に感染免れて帰宅した85歳の私。奇跡‼

帰宅して1ヶ月経った頃、急に息切れして100歩も歩けない体調になってしまいました。クルーズの旅が16日間 勿論楽しい船旅でした。

鹿児島 香港 ベトナム 台湾 沖縄と寄港、その地の名物料理を楽しみ、観光したり、夜は毎日が豪華ショー。連日のダンスパーティー最高な日々でした。

門田 真乍子様卓話1
門田 真乍子様卓話2

クルーズ船で隔離生活2週間 同室の友人と楽しい話題を見つけ合い、皆で協力し合って笑いのある生活。3日に一度の散歩の時間には車椅子の方と笑顔で車椅子を押しあいました。90歳の車椅子の方は、「歳を重ねてもこんな楽しい日々が出来のですから写真載せても良いですよ」と楽しそうに話しておられました。

「怒声飛び交う船内」とか週刊誌では、センセーショナルに報道されていたようですが、私たちの周りでは、全く違う日々、みなで心遣い合い、暖かい言葉掛け合い、支給されたサングラスを鼻眼鏡にして、食事を配る乗員を笑わせたり、電話でお一人の方を勇気付けたり、それぞれが今出来ること精一杯しておりました。合言葉は、「お国のため、世界のため」日本人の誇りをかけて過ごしておりました。

乗員の一糸乱れぬホスピタリティも見事な仕事振りでした。クルーズの日々は勿論、笑顔いっぱいで対応してくださいましたが、隔離生活になっても、緊張した面持ちながら、どんな時も笑顔溢れる対応をしてくれました。

自衛隊の隊員やディーマットの方々は、それなりの防護服を着ておられましたが、乗員はマスクだけ、陽性の患者の部屋も受け持って、感染のリスク高い中のあの仕事振りです。感謝感動でした。1ヶ月お世話頂いた部屋係の乗員の疲れた表情で笑顔で手を振って送ってくれた姿は忘れられません。

イケメン船長殿、パーティーでお目にかかった頃は沢山の乗客に心遣いされ、この緊急時に乗員全てが愛溢れる行動が出来たのは、彼の命を掛けた使命感が背景にあったのだと思います。

最後に下船されたとのこと、遠い日本から、感謝のエールとこれからの人生のご多幸を祈っております。

素敵な船医殿、クルーズ初期に扁桃腺の後遺症で医務室に伺った時は、優しく的確な診断を頂いて感動しておりましたが、下船近くお目に掛かった時は、憔悴されたお姿ながら笑顔で手を振って下さったのが印象的でした。どうぞご無事で‼

クルーの温かい友情は生涯の宝となりました。ありがとうございます。

家族の愛も凄く感じる事がたくさん。娘、孫、息子のパートナーちゃん、クルーズまで薬や差し入れ届けてくれたり、孫たちは、面会出来るギリギリの岸壁まで何回も赤い服着て「バァバ頑張ってー」と応援エールくれました。私も赤いマフラーとヤッケで、涙で顔グシャグシャにしながら手を振っておりました。ベランダのある部屋でよかった‼

帰宅して2週間 公的機関からの電話による観察がありました。観察期間終了の日、保健所の方から、これからは全て普通の生活してください。例え発熱してもコロナでは有りませんから、普通の医療機関にかかってください。

嬉しかった!さあこれで他の方に感染させるご迷惑はかけない。

加害者から開放された!さあ後、数日様子見て普通の生活始めるぞ!

そんな折、今考えると誰も悪くないのですが、いわゆる風評被害で傷つきました。

毎日ご心配を頂いていた我が師匠から、後一週間お教室休んで欲しいとご連絡あったり、「こんな時期ですから、散歩やウォーキング暫くやめたら」とお言葉掛けてくださる方もおりました。もし、目の前のライオンに襲われたら誰だって身構えますよね。人間の防御本能として当然。初めてのコロナウイルスとの対面。私だって立場を変えたら同じ行動とっていたかもしれません。

でも心から大好きな身近の友人からのアドバイス、心折れたのは不思議。

陰性証明書をもらってから1ヶ月半、自主的に自粛生活送って科学的には万全を期したつもりでしたのに。張り詰めていた気力が一気に崩れました。

その一週間で体力的にもガタガタ、足のししゃもが、振り袖に、筋肉が無くなるのが目に見えて解りました。100歩も歩けない体調になっていました。

体重2キロ減、ダイエットには成功した。家族の優しさ、友人の暖かさが身にしみた。膝関節症が治ったスッキリ少し綺麗になったかしら?

人生で、自分が納得して進む道は周囲の状況が厳しくても耐えられる。

一度心折れてしまうと健康でいられる事は難しい。

自分らしく最良と思える人生を歩もう‼

門田 真乍子様卓話3
門田 真乍子様卓話4
門田 真乍子様卓話5

このコロナ禍で私が得たもの

・筋肉は2週間使わないと7年分落ちてしまう
 元に戻すことは非常に難しい。筋肉を落とさないことは最重要課題。

・家族の暖かさ、友人の優しさ、日本の公的機関の素晴らしさ。

心と体は一心同体。

一度心が折れてしまうと立ち直るのが大変。でも生きている間は生き抜く!

そして最後に、起こりもしない不安をどう克服したか。

自分の過去を褒めてあげよう!

「今を大切に生きよう」が今までの考えでしたが、そんなこと出来ないから悩むのです。

・真乍子ちゃん、85才までよく頑張ったね。

・50才からの色彩設計の起業もたくさんの後輩を育て、やるだけやったじゃない。

・130年続いている父の仕事、塗装の仕事も100倍にしたじゃない。

・70才からはじめたダンスも武道館で2回も踊ったね。

幸せで健康でやりたいことが出来る財運に恵まれ、良い子供だちに育ってくれてよくやったね。。。とほめるとスーッと気が明るくなります。

自分で決めた人生、明るく、幸せに生き抜きます!

卓話『六本木ヒルズ誕生秘話』令和2年11月30日

株式会社タフ・コーポレーション 代表取締役社長 藤後 幸生様

株式会社タフ・コーポレーション 代表取締役社長 藤後 幸生様

ご紹介賜りました藤後でございます。

昨年の10月に角川書店から『これからの都市ソフト戦略』という本を上梓させていただきました。

かつて吉田松陰がこれからの日本を考えて「松下村塾」を、松下幸之助が日本の政治経済を考えて「松下政経塾」をつくったように、森稔氏のお父様でいらっしゃる森泰吉郎氏は、これからの都市を変えなければと考えて「アーク都市塾」を立ち上げられました。六本木ヒルズがオープンする3年前から、ちょうど21世紀になる寸前、私はその「都市塾」で講師をさせていただきました。

戦後日本は本当に焼け野原になりましたから、まずは道路をつくることが重要でした。道路はより広くまっすぐに、さらに全国津々浦々には高速道路網、新幹線網、そして全国98か所に空港がつくられました。国民の生活に必要なインフラとして、ダムも下水道も公園までも、ハードというハードが戦後復興の象徴として全国につくられました。しかし、民間の土地には手が付けられず、「町」も「街」もそれぞれが独立して佇んでいる状況でした。

そこに森稔氏が、「職・食・学・住・遊・医」のすべてそろった、ソフトから考えた「街づくり」を推進しました。経済成長をして戦後復興をしていく中で、「街」をつくることが大切ではないかと考え、実現したのは森稔氏だったのではないかと思っています。そこで、私も「都市ソフト戦略」という形で、「アーク都市塾」で講義をさせていただき、氏の思いを少しは伝えさせていただけたかと思っています。

本来、国や東京都、港区、行政がやらなければいけないことを個人がやることによって、どれだけ大変な思いをしたか。本日は、その中で「六本木ヒルズにおける商業について」の裏話をさせていただきたいと思います。

さて1986年、赤坂にアークヒルズが誕生しました。全日空ホテル、500坪のオフィス棟が2棟、住宅棟、文化の香り漂うサントリーホール、そしてカラヤン広場があります。完成した頃は、床を上げてコンピュータ回線を通す「インテリジェントビル」が最先端といわれた時代でした。森稔氏は、この和製英語である「インテリジェントビル」からもっと先に進み、「スマートビル」を目指すのだと言いました。ここに勤め、おいしいものを食べ、学び、住む。この場所に「ソフト溢れる街」をつくろうという計画がスタートしました。

当時のオフィスビルは、「三菱地所に追いつけ・追い越せ」が表題でしたので、ビルの1階や地下に商業施設が入ることにはとても反対がありました。

オフィスを借りる入居責任者にしてみれば、気にするのは社長の車寄せはどこかや部屋に日が当たるかなどで、従業員の食事スペースなどは考えに及ばなかったのです。一方ディベロッパー側は、商業を入れればビルの質を落とすという考え方だったのです。そこで、入ることを許された商業と言えば、オフィスで働く人が利用するための最低限のレストランや、待ち合わせのための愛想の悪い薄暗い喫茶店くらいのもので、外部の方がビルに入ってくることを好みませんでした。

当時の「ファイブスターのオフィスビル」の常識はそのようなものでした。

アークヒルズ開業9年目の時に阪神淡路大震災が起こり、この時に森稔ご夫妻がアークヒルズに移ってこられました。そして「アークヒルズ10周年を目指して、この街もっと楽しい街に変えよう」というご指示をいただき、「ニューヨークマンハッタン2ndストリート」という仮想空間のイメージで街づくりを考えてみました。1階には日本に上陸したばかりのスターバックス6号店を入れ、2階にはサントリーホールとの繋がりを含めて大きな変革を行いました。共稼ぎが当たり前となった時代に、スタイリッシュに朝はコーヒーを飲み、夫婦でランチやディナーをするというようなDINKS(Double Income No Kids)のスタイルは、ニューヨークから持ち込んだ「マンハッタン2ndストリート」において大成功しました。このアークヒルズのコンセプトがその後の丸の内仲通りを変えていきます。

ちょうどその頃、既に新しい六本木ヒルズの計画はスタートしていて、世界最大の設計会社KPFが着手していました。

少し話は変わりまして、1993年のことです。ハリウッド化粧品の創業者であるハリー牛山氏を偲んで、毎年のようにハリウッド美容専門学校は研修旅行としてロサンゼルスを訪れていましたが、毎回若い生徒たちが見学し遊ぶユニバーサルスタジオの前には、この年、ロサンゼルスをイメージした巨大な「シティーウォーク」というものが完成していました。この時、同行なさっていたハリウッド美容専門学校の山中理事長から、「藤後さん、このシティウォークの街並の雰囲気を、今度つくられる六本木の計画に入れてはどうでしょうか」という提言を受けました。シティーウォークをつくった人物は、LAオリンピックのデザインを成功に導いたジョン・ジャーディー氏でした。

早速、この話を森稔氏にしましたところ、アークヒルズの成功から、「ファイブスタービル」にうまい具合に商業を入れることは可能だと認識されていましたので、ジョン・ジャーディ氏に会って話をすることになりました。しかし、世界中のオフィスビルを手がけるKPF社は無機質でシンプルな建物が良いという考えを変えず、商業施設の融合についてはとても難色を示しました。そこで、森稔氏がロサンゼルスにおいて両者と話し合った結果(というより説得した結果)、6階まではジョン・ジャーディ氏のデザインによって商業施設を採用することになりました。KPF社は本来、ジョン・ジャーディ氏とは組みたくありませんでしたが、アークヒルズ成功の前例もあり、33,000坪の街つくるためには魅力的な街の姿を持つ商業が必要だということが頭の片隅にあったかと思います。

しかし、ジョン・ジャーディ氏の作品は原色がたくさん使われていますので、そのまま六本木ヒルズに持ってくるわけにはいかないと森稔氏は考えていました。そこで、何度もアメリカをご夫妻で訪問していただく中で、サンディエゴ市の少し北にある高級住宅地デル・マーにあるジョン・ジャーディ氏の手がけた商業施設を見学し、ここのグランドキャニオンの地層を連想した外壁が気に入り、六本木ヒルズに取り入れることとなりました。これは今、毛利庭園から眺められる景観となっています。

六本木ヒルズの建設はこうしてスタートしましたが、東京都からは33,000坪の都市開発が認可されたものの、数々の許可をとる必要がありまして、そのひとつに東西道路と南北道路、つまり縦横に16メートルの都道をつくるという条件がありました。しかし、大きなオフィス棟を横切る16メートルの都道などまともに通すわけにはいきません。そこで、ジョン・ジャーディ氏の発案によって、大きなオフィスタワーの周りを8メートルずつに分けるということで、この難局をクリアしました。それがEastループとWestループです。これによって、巨大なオフィスタワーの周りが「歩きたくなる街」になり、六本木ヒルズの商業施設が完成していったわけです。

グランドキャニオンの地層、環状三号線の開通、ハリウッドビル、地下鉄から長いエスカレーターを上がると異次元を感じさせる広場にはルイーズ・ブルジョワによって製作された、「街を楽しめる」という意味の大きな蜘蛛の現代アート。世界中のどこにもない景色が完成しました。最も賃貸料の高いはずの最上階には敢えて森美術館を置き、最も稼げる1階を敢えて道路にしました。私有地でありながら警視庁の道路交通法が通り、車寄せ、タクシー乗り場、バス乗り場など、渋滞しないための仕組みがすべて揃っています。駐車場の入り口が12ヶ所あるため、どんな繁忙期でもほとんど道路渋滞は起こりません。とてつもない無駄なことをやりながらも、皆が満足することを考えた街。

皆さん分かりますか。こんなことにお金をかける人はいません。しかしそうすることで世界のどこにもない景色が出現し、「NYの911」で被害を受けたワールドトレードセンターのオーナーであるシルバースタイン氏からも「これだけの街をつくれる方は他にいない」というお言葉を頂きました。これが森稔氏の街に対する考えの凄さだと思います。

森稔氏の一番好きな言葉。

「龍になれ、雲、おのずから集まる。黄金に輝く雲に助けられて今日がある」

森ビルが創業して61年目です。港区は、質の高い街が増えたことによって人口も増え、働く人、訪れる人も増えて路線価が上がり、豊かになりました。「風が吹けば桶屋が儲かる」、長い時間をかけて魅力ある街が出来上がり、そして港区の税収が上がる。「我々が税金を稼ごうではないか」と考えています。森稔氏のような方が日本全国の街を再建してくれたら、日本はもっと良くなるのではないかと思います。

ご清聴ありがとうございました。



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