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国際ロータリー第2750地区 東京六本木ロータリー・クラブ The Rotary Club of Tokyo Roppongi

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卓話

2020年2月

卓話『浮世絵からお江戸にタイムスリップ』令和2年2月3日

日本ユネスコ協会連盟 評議員 (株)東急イン 文化担当執行役 牧野 健太郎様

日本ユネスコ協会連盟 評議員 (株)東急イン 文化担当執行役 牧野 健太郎様

1905年の2月23日はロータリークラブの設立記念日とお聞きしました、この2月23日、今年は令和初の天皇誕生日、そして富士山の記念日でもあります。73年ぶりに今年、日本国パスポートの査証(ビザ)欄のデザインが一新され、富嶽三十六景シリーズが使われます。

浮世絵版画は、和紙への木版印刷です。光に弱く、すぐ変色してしまいます。この事を案じた、スポルディング兄弟がこの浮世絵のコレクションをボストン美術館に寄贈するにあたり、その美しい状態を維持するため「誰にも見せてはいけない」という厳しい条件をつけ、現在まで一度も展示されていません。ただ展示はできませんが、「デジタル撮影は禁じてなく(100年前の契約のため)」本日は、画像データとして世界で一番美しいといわれの浮世絵を見て頂けます。

「東海道五十三次 日本橋 朝之景」

日の出前、大名行列が、神田方面から銀座・品川方面へ向かって歩いてきています。東海道を西へ向かう大名、毛槍を二本立ているので、少なくとも三万石以上、200人以上が歩く大名行列です。西への帰る参勤交代となると4月という決まりがあり、春4月の日の出前、朝早い時間を描いていることが分かります。手前に一般庶民が立っています、魚を入れた桶を持つ魚屋さん、4月と申しましたので、この桶の中味は初鰹に、春の鯛と分かります。

まな板も描かれていて、魚屋さん長屋まで来て井戸端で鰹を三枚におろして、買い手のお皿に盛ってくれる、つまりゴミが出にくい町が存在していました。左下には八百屋さんも描かれています。「葉物一里根物二里」、小松菜のような葉物は萎れやすいので一里4km程度の近場のもの、根菜類は8km、大根やごぼうは少々遠くのものでも大丈夫。何でも天秤で売りに来てくれると言う、コンビニエンスな江戸の町でした。

一枚の浮世絵から様々なことが見えてきます。

「名所江戸百景 日本橋雪晴」

1月頃の日本橋を描いたものです。富士山が見えているので、西を見ていることが分かります。手前の魚市場には大きな魚、マグロも描かれています。この日本橋川が江戸湾に繋がって、この仲買さんが小売(棒振り)に売っていました。奥には江戸城も描かれています。

「日本橋魚市繁栄図」

お城と富士山が描かれています。魚市場のこのお兄さんが扱うのはサザエやアワビ。また魚市場の方は裸足、なので、こちらの草履をはいている人は買い付けの親方と分かり、いま仲買からイカを買ったと見えます。またこの浮世絵には、棒手振り(魚屋さん)が水に濡れないようにと、桐油紙で作った合羽姿や、手ぬぐいを肩にかけて朝風呂にいく塗下駄の小粋なお姉さんも描かれています。この絵が描かれる少し前、1800年頃には、日本酒や醤油などが、今と同じように作られるようになり、日本食の原型が出来てきました。その日本食の代表であるお寿司屋さん、その中のカウンターで、お寿司を食べている人まで描かれています。

「名所江戸百景 猿わか町 夜の景」

江戸では、「朝千両、昼千両、夜千両」、毎日三千両が動くといわれ、朝は魚市、昼が芝居小屋でした。そのお江戸の名所である歌舞伎小屋、江戸三座の並ぶ「猿若町」を描いた浮世絵です。芝居の跳ねた夜を描いています。ここに描かれているのは、奥から中村座、市村座、森田座は、今も浅草6丁目となって通りだけが残っています。通りの左側は芝居茶屋です、芝居がはねた後に宴会場所、そして通りには、ファーストフードの原型、立ち食い寿司の露天商が描かれています。当時のお寿司は少し大きく、ふたつに「ポン」と切って食べた事から、今でも二貫ずつお寿司を出しているという説もあります。

「名所江戸百景 浅草田甫酉の町詣」

夜千両の吉原です。当時は皆が憧れる場所、女性が着飾る場所、男の人も女の人も見物に行きたくなる場所、吉原で流行ったファッションが流布する情報発信の場所でもありました。

そしてこの浮世絵はお祭りの日、酉の市の縁日を描いています。そして怒れる白い猫が窓辺に描かれています。その窓の外、白い富士山の見える吉原の遊郭の二階の窓から、田圃の中央をよくよく見ると、大きな熊手を抱えた参拝客の人並が繊細に描かれています。それにしてもこの「白い猫君は何に怒っていらっしゃるのでしょうか?」。

右上隅に改印などが押されていて、この印から1857年の11月ということが読み取れ、当時、お江戸で売られていた吉原細見というガイドブックから当時の江戸っ子には「白い猫を飼っている富士山の見える二階屋の太夫のお名前」が分かり、またこの手ぬぐいの模様から「旦那」のお名前も想像が付いたという、江戸の粋と笑いを忍ばせた一枚です。

「歌撰戀之部 物思戀」

浮世絵版画は、当時のカラー印刷ですから、当時何枚摺られたのか、また現在何枚存在するのか分かりません、つまり高く値段が付きにくい作品です。しかしオークションで一億円を突破したものがこの歌麿さんの「歌撰戀之部 物思戀」です。恋に落ちた美しい女性を描いています。ただ眉が無いこの女性は人妻で、「不倫」を描いた寛政年間の作品です。灯篭便(とうろうびん)の髪の毛は「びんはり」で美しく「ピーン」と張っているのが特徴で、髪の生え際には1㎜内に、3本。さらにその髪の毛の間0.3㎜に、別の色のグレーの影の線が入り、重ねて刷っています。当時の職人さんの遊び心と神業が描かれた一枚です。

「富嶽三十六景 神奈川沖浪裏」

世界で一番有名な日本の絵として知られています。1833年頃に描かれた「神奈川沖」とは、神奈川県の沖では無くて、「神奈川宿場の沖」、日本橋から品川宿、川崎宿、その次の「神奈川宿」の沖から見た富士山です。現在ならば、東京湾アクアラインの海ほたるのあたりから横浜方面、大きな波と共に富士山を描いた1枚です。江戸湾内、南風の大波に舳先をぶつけ、通り抜け、反転して日本橋方面へ向かう、生鮮食料品を運ぶ超高速運搬船「押送船(おしおくりふね)」が三艘も描かれています。北斎さん70歳代の代表作の一点です。

ありがとうございました。

卓話『<松方コレクション>と日本の美術館の歩み』令和2年2月10日

作家 原田 マハ様

作家 原田 マハ様

私は森美術館準備室で5年程お世話になり、そこから派遣していただくような形でニューヨーク近代美術館に約6ヶ月間籍を置かせていただきました。森美術館に勤務させていただいている時には、ひとつの大きな美術館をこれから設立するという滅多にない歴史的な瞬間に立ち会わせていただき、私の人生の中で何よりも素晴らしく大切な経験となりました。

アートと美術館は私の人生に大きなギフトを与えてくれました。森美術館を離れることになった後、アートや美術館、関係者の皆様からいただいたたくさんのご縁に恩返しをしたいという思いの元に、アート小説を書き始めました。美術館というと敷居が高いとか、現在アートはよく分からないという方もいらっしゃいますが、小説だったらということで、興味を持たれて入ってくる方もいらっしゃいます。

私の小説は10%の史実でフレームをしっかりと作り、その上に90%のフィクションを構築していきます。10%の中に実在の美術館や実在のアート作品を多く登場させ、興味を持っていただき、実際に出かけていただく。小説を読んで終わりではなく、良き入り口であり、良き出口であってほしいと思っています。

日本は美術館大国と呼ばれています。47都道府県全てに美術館があり、世界の展覧会の年間動員数を見ても、必ずトップ10の中に日本で開催された展覧会が入っています。50万人以上を動員することができる展覧会が、日本で多々開催されています。日本人が美術館や展覧会が大好きな国民であるということは、私も大変誇らしく思うことであります。

日本の代表的な私立の美術館をいくつかご紹介いたします。

大原美術館 1930年設立 日本で最も古い西洋美術館で、今年で設立90周年という大変な歴史を誇る美術館です。

旧ブリヂストン美術館 1952年設立 今年アーティゾン美術館と改名しリニューアルオープンをしました。

ひろしま美術館 1978年設立 広島銀行の開行100周年を記念して、平和の象徴としてオープンしました。

ポーラ美術館 21世紀最初の私立美術館で、先代のポーラ社長のコレクションを元に設立されました。

そして我らが森美術館。2003年に六本木ヒルズに誕生しました。設立者は、私が人生を通して最も尊敬申し上げる森稔前社長です。

過去100年の間に、日本ではなかなか公立の美術館が立ち上がりませんでしたが、ニューヨーク近代美術館がオープンして間もなく、大原美術館が開館しました。日本という国、日本の国民が、どれほど早く西洋美術に対して開いた眼を持っていたか、強い関心を持っていたかということが分かります。

国立西洋美術館は昨年60周年を迎え、私も合わせて小説を書かせていただきました。「美しき愚かものたちのタブロー」は、国立西洋美術館の元となった松方コレクション、松方幸次郎のお話です。

松方幸次郎は大変な実業家です。父は明治の元勲といわれ、2度首相を務めた松方正義で、大変な名家に産まれました。アメリカに留学をしたこともあり、早くから眼差しを世界に注ぎ、日本が世界の中でどのような位置づけであるべきかをかなり早い段階から意識していました。帰国後1896年に川崎造船所の初代社長となり、のちに神戸新聞や神戸瓦斯などの社長を務め、大実業家になっていった方です。彼のすごいところはそこにアートと文化を招き入れたことです。

第一次世界大戦が終息する前に、今こそ船を売るチャンスだと、果敢にも単身アメリカ経由でイギリスに乗り込みました。そこで画家であり建築家でもあるフランク・ブラングィンが書いた戦争のプロバガンダのポスターを見つけ、アートが人の心を動かすことに作用していると気付きます。1枚の絵が100人の兵力に匹敵するのではないかと、ブラングィン経由でアートの世界に入りました。のちにパリに渡り、ロダン美術館の館長レオンス・ベネディットと出会い、そこから松方のコレクションは大きく広がっていきます。パリでこそアートに開眼したと言えるでしょう。当時在イギリス日本大使館に勤めていた吉田茂とロンドンで出会い、朋友になったのもこの時期です。最終的にはコレクションを集めたのちに、日本の若者達のために美術館を作りたいということに思い至ります。アートが人の心に対して大きな作用をもたらすと身をもって知ったことで、日本に立派な美術館を作って、これから西洋の文化に触れていく子ども達や若者達のために役立ててほしいという大きな理想を掲げます。その熱い思いの元に集められたロートレックやゴッホ、ルノワールなどの大変な名画は、今でこそ天文学的な金額の作品ですが、当時はまだまだ買える値段で、印象派や後期印象派の作品に目を付け買い集めたのは、大変賢いコレクションの仕方だったと思います。

実際アーティストのアトリエを訪ねて作品購入もしました。当時国民的画家だったモネのアトリエに行き、松方の熱い思いに動かされたモネから作品を譲ってもらったり、またレオンス・ベネディットから当時の現代アーティストを紹介してもらったりもしました。

しかし3000点を超える作品が集まった松方コレクションは、そのあと数奇な運命を辿ることになります。主なコレクションを集めたのは1921年頃、両大戦間のちょうど経済が非常に良かった時代です。しかし日本に帰国後に戦後の恐慌が来て、1924年に川崎造船所の社長を辞任することになります。財産整理のため、松方はコレクションのほとんどをパリとロンドンに置くことにします。パリに置いたコレクションはアシスタントとしてパリで雇っていた日置釭三郎に管理を頼み、ロダン美術館の倉庫の中に留め置かれました。

その後第二次世界大戦が勃発し、1940年にフランスがナチスドイツによって占領され、ヒトラーはフランスにある名品の数々に目を付け、押収せよという命令を下します。フランスはそれを察知して、ルーブル美術館をはじめとする美術館にある名品の数々を地方に疎開させます。1941年に日置も松方コレクションをアボンダンという寒村に疎開をさせ、1944年にパリが開放されるまで、3年間コレクションと共に生き延びました。ようやくコレクションをパリに戻すことができましたが、日本とフランスは敵国同士となってしまっていたため、松方コレクションはフランス政府によって在外財産として押収され、松方は自分のコレクションを二度と見ることなく亡くなってしまいました。

松方の死後、フランス政府からコレクションを押収していると遺族に連絡が入ります。それを知った朋友吉田茂は、1951年にサンフランシスコ講和条約が結ばれた際、フランスの外相に直談判をし、最終的に1959年に返還、そして国立西洋美術館が誕生しました。

松方コレクションが戦前・戦中・戦後史のエッセンシャルな部分を真に負いながら日本に返還され、平和の象徴として国立西洋美術館がオープンしたということは、大変喜ばしいことだったと思います。その国立西洋美術館を初めとして、戦後の平和な日本では次々に美術館が誕生しました。

美術館は平和の象徴として存在していると、私は常々思っています。分断された世界をミュージアムで繋ごうという素晴らしい国際会議「ICOM」も戦後まもなく立ち上がりました。森美術館も素晴らしい発展を遂げ、昨年の塩田千春さんの展覧会では66万人を超える大動員を記録したということで、「現代アートって何?」と言われていた時代からアートの世界に身を置いてきた者としては、これほど多くの人達に受容される時代が来たことを本当に嬉しく思います。

只今、パリのルーブル美術館ではレオナルド・ダ・ヴィンチ没後500年を記念した大展覧会が開催中です。500年の流れの中で、私たち人類はアートというものを一度たりとも忘れることなく、どんなに不幸な戦争があってもアートを守り伝えてきた。それが私たち人類の歴史であったということを思わずにはいられません。その最先端に今私たちは生きていて、森美術館をはじめとした素晴らしい美術館の数々を訪れること、アートと共住することができる世の中になったことを共に喜びたいと思います。

「人生に美術館を」

アートのある豊かな人生を、これからも皆様と共に歩んでいきたいと思います。

ありがとうございました。



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