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国際ロータリー第2750地区 東京六本木ロータリー・クラブ The Rotary Club of Tokyo Roppongi

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卓話

2017年10月

卓話『女性活躍の時代にこそ、女性の「生涯就業力」を』平成29年10月30日

大日向 雅美様

恵泉女学園大学 学長 大日向 雅美様

本日は日頃経営者として女性の雇用にご尽力くださっていらっしゃる皆さま、あるいはご自身が女性の経営者として活躍のモデルとなっていらっしゃる皆さまとご一緒にこれからの女性活躍はどうあるべきか、ご一緒に考えさせていただければと思います。

まず、日本の女性活躍の現状をデータで見てみますと、昨年OECDが発表したジェンダーギャップ指数は、世界144か国中、日本はなんと111番目です。これほど発展していて、GDPも非常に高いと言われている国が世界144か国の中で下から数えた方が早いくらいです。政府も国を挙げて女性活躍と言っている昨今ですのに、なぜこれほど男女格差が存在しているのでしょうか、何が女性活躍を阻んでいるのでしょうか少し前まではそれは、男性中心社会の制度があるから、慣習があるからだろうと言われていました。確かに今もこれは完全に払拭されているとは私は思いません。ですが、私が今日お話ししたいのは、別に男性中心社会の事を批判しようということではありません。むしろ私たち女性自身の中に潜んでいる無意識の壁、そして、おそらくそれは男性の心の中にも見えない壁としてあるものについてです。

私は専門が心理学でございますが、このことに気づかせてくれた研究があります。モチベーション、動機付けの研究です。人間の動機には二つあると言われていました。一つは「成功達成動機」、もう一つは「失敗回避動機」です。何かしようという時に、難しいけれど一生懸命頑張ってなんとか成功を収めたい。これが「成功達成動機」です。一方、失敗が嫌だから、失敗することだけは避けようというのが「失敗回避動機」。

しかし、女性には実はこの二つの動機では測りきれないもう一つの動機があるという事が発見されたのです。それが「成功回避動機」という、あえて成功することを避けようとする動機です。これはマティーナ・ホーナーというアメリカの社会心理学者が発見した動機です。男性は社会的に成功すると男らしいと言われる。でも女性は社会的に成功すると立派だけれども、女らしくないと思われて、男性からは愛されなくなるというダブルスタンダードがある。、それを女性が恐れて、あえて成功を避けようとする、あるいは自分に能力があってもあえて隠そうとする。そんな心理があると言われたのが1968年の頃で、今から50年前です。折しも、全米中に女性解放運動が渦巻いたときでした。女性の自立を妨げているのは、実は男性社会ではないのだ、女性自身が心の中に秘めている男性に媚びる気持ち。その媚びと甘えが女性の自立を妨げているのですよ、という事をベティ・フリーダンという女性が宣言して、NOW(National Organization for Women)という全米女性組織を立ち上げました。この女性解放運動は世界中に広がっていきました。

この影響は日本にも伝わって、今、女性活躍が言われる時代も迎えています。でも、その一方で、時計の針を逆行させるような風潮も出ていることが懸念されます。たとえば、女子はただ可愛ければ良くて、知性も自立もいらないというような歌を、昨年、アイドルグループが歌って話題となりました(「アインシュタインよりディアナ・アグロン?」)

しかし、希望ももてるのは、今の若い女性たちはけっしてそれをよしとする人だけではないということです。学生たちとディスカッションをしてみると、知性も強さも女性の魅力、女性の活躍の時代を迎えた今だからこそ賢く美しく生きたいと言う学生も少なくありません。

http://www.keisen.ac.jp/blog/president/2016/05/post-4.html

こういう学生たちが真に活躍できる社会であってほしい。そのために必要な力を身につけさせることが、女子大の役目でもあると考えます。、私が勤務しております恵泉女学園大学は人文社会科学領域のリベラルアーツの大学です。人文社会科学の学びというのは基礎的な知識、理解、技能そして何より大切なことは明快な解がないことです。ですから迷いながら答えを彷徨って見つけていく。しかもそれは自分ひとりではなくて、いろんな方と力を合わせていく。こうしたことができるために磨くべきもの、それが「生涯就業力」だと思います。女性の人生は長く一直線ではありません。結婚・子育て・介護等で、人生設計を変えざるを得ないことが少なくありません。こで継続して働けるとは限らないのです。それでも目標を見失わずに、しなやかに強(したた)かに生きる志とそのための力が必要ではないでしょうか。ですから私は女性にとって必要なのは、就職力ではなく生涯に亘って目標を持ち続ける、「生涯就業力」だと思います。それは言い換えると、いつ何があってもどこにあっても、なくてはならない人となるということです。恵泉女学園大学の考える女性活躍というのは、決して煌びやかな活躍をする女性だけではありません。大切な身近な方の為に、あるいは地域や社会の為に地道に尽くすことが出来る女性を育てていきたいと思っております。「生涯就業力」に必要なもの、それは社会人基礎力と努力に裏付けられた自己肯定感です。社会人基礎力とは、「正直な人」「礼儀正しい人」「仕事が早くて正確な人」「課題を見付け、考え、改善改良に努める人」。恵泉女学園の理事長宗雪雅幸(元富士写真フィル社長長)が、企業人の経験から社会に出て信用される女性となるために必要な基礎力としてこの4つの条件を常々学生たちに言っています。

最後になりますが、「生涯就業力」を磨くというのは別の言葉で言うと、凛として生きる賢さ、そして人としての美しさを備えた女性となることではないかと考えております。「なにがあっても決して逃げださない、言い訳しない、人のせいにしない。」そういう女性が本当に育ってこそ女性活躍の時代がくるのではないかと思います。

ご静聴、ありがとうございました。

卓話『迎賓館赤坂離宮』平成29年10月16日

安藤 昌弘様

一般社団法人新情報センター 会長 安藤 昌弘様

迎賓館は外国からの賓客、国賓をお迎えして、そこで接遇する施設です。昭和40年代に赤坂離宮を改修いたしまして、昭和49年から迎賓館として使われるようになりました。赤坂離宮はどういった建物かというと、明治32年から42年の10年をかけて当時の日本人の建築家、美術工芸、設備あらゆる分野の専門家が結集して作った素晴らしい洋風宮殿です。現在赤坂離宮は国宝に指定されています。この建物はいろいろな点でとても素晴らしいのですけれども、今日は二つだけ皆さんにお話ししたいと思います。

第一点は日本人の手による洋風宮殿ということです。明治になりまして、まさに文明開化、殖産興業、富国強兵という時代の大きなうねりのなかで作られているということが、背景にあると思います。欧米の学問を受け入れるために、次々と教育機関が作られました。医学の世界、工学の世界、化学といろいろありますけれども、建築の分野でもそういう高等教育を受ける機関として、工部大学校造家学科が作られました。その時にジョサイア・コンドルというイギリス人の建築家を先生として呼んでいます。彼は当時イギリスロンドンの建築の最先端にいた人で、ソーン賞という建築家の登竜門を受賞して、イギリスの建築界を背負って行くのではないかと嘱望されていた一人だったそうです。明治の人は偉かったなと思うのは、そんな人を遥々日本に引っ張ってきて素晴らしい指導者を得たことだと思うのです。

ジョサイア・コンドルの下で工部大学の1期生が明治12年に4人卒業します。そのひとりが赤坂離宮の建築設計と総監督をした片山東熊です。彼は卒業してから宮内省に入り、素晴らしい建築家に成長しまして、京都の国立博物館、奈良の国立博物館、上野の表慶館、旧竹田宮邸の高輪プリンスのところにあります貴賓館等を設計しました。そういう宮廷建築をずっとやって行くなかで、明治32年から10年間かけて迎賓館赤坂離宮を作りました。

赤坂離宮は当時の日本人が必死に洋風建築を学んで作り上げたものです。単なる建築だけではなく、例えば日本のセメントを使ったらどうなるかとういことを、研究所や大学で全部研究してやっているのです。明治12年に1期生が卒業して32年着工ということは20年です。この20年の間に明治の人たちは、当時の最高の技術を使い、それを自分たち日本人のものにして作り上げているのです。その点をお知りいただきたいと思います。

二点目について赤坂離宮はベルサイユの物まねであるという風に、本当に冷たい評価が世の中にはまだまだあります。残念ながらベルサイユのコピーという感想をかなりの人はお持ちだと思います。ですがこれははっきり言って違います。似て非なるものです。例えば洋風宮殿を日本に作るときに、地震もなければ台風もないヨーロッパのものをそのまま持ってくることが出来るでしょうか。特に地震対策というのは片山東熊も含めて、日本の総力を挙げて、どうやって耐震構造にするのかというのをすごく研究しています。

例えば1893年シカゴ万博のとき素晴らしいパビリオンが建ちます。片山東熊はそれを見て回って、あの建築工法は絶対に屋根に必要だということで、あの鉄骨の構造をなんとか日本に取り入れたいと思い、カーネギーの本社に行ってやりとりするのですね。いろんな研究をし、手を尽くして赤坂離宮の建物の屋根はカーネギー社の大変貴重な鉄骨を使って作られました。地震に対する大変な苦労をして作り上げ、出来上がったのは1909年です。その14年後の1923年に関東大震災がありましたが、びくともしなかった。これは昭和の迎賓館の改修の際に調べてわかったことを聞いた話ですが、クラックひとつ無かったそうです。当時凄く揺れたにも関わらず、大きな建物がきちんと重力のバランスが取れていて、耐震構造が出来ていたと。コンピュータの無い時代にどうやって計算したのだろうかと感心したということです。それだけ当時の日本は明治の何十年の間に、研究をしてきていたということです。そういう事で、ベルサイユのコピーなんてことはどうぞ皆さま思わないでいただければと思います。

最後に赤坂迎賓館を楽しく見る方法をお教えしたいと思います。赤坂離宮の屋根の上には正面に鎧兜の武者が二体建っています。これは実は阿吽になっているのです。その横に星が散りばめられた大きな天球儀があって、その四隅に霊鳥がまさに飛び立とうとしている像が建っています。これは皆さんうっかり気づかずさっと通ってしまいますから、是非行かれた時に屋根をよく見てください。

中に入りますと、当時の人たちが洋風宮殿を作っているけれども、これは日本の宮殿だという事をデザインのなかに一生懸命取り入れています。例えば羽衣の間という部屋の、壁面の金箔が施された浮き彫りはバイオリン等いろんな楽器がモチーフになっていますが、よく見ると琵琶や笙、小鼓が入っています。シャンデリアはバカラの素晴らしいものですが、その中には金の鈴が飾られています。日本の鈴を入れて、単なる西洋のデザインだけではないということをやっています。いろんなところに、明治の人たちの苦労が埋め込んでありますから、ご覧になられるときに綺麗だなということの他に、そういうものを見つけていくと面白いと思います。

是非これは見て頂きたいというのは、花鳥の間という部屋にある七宝です。七宝は当時万国博覧会で世界の人たちの垂涎の的でした。この素晴らしい七宝が壁にはめ込んであり、30点が一度に見られます。また、二階の正面に小磯良平画伯の「絵画」「音楽」という素晴らしい絵が飾られています。小磯先生の代表作ですので、迎賓館の中に入った時には是非ご覧下さい。

どうぞ赤坂迎賓館を楽しんでご覧いただければと思います。ありがとうございました。

卓話『東日本大震災による東京での体験及びその分野におけるウクライナ・日本協力関係』平成29年10月2日

ユーリ・ルトヴィノフ様

在日ウクライナ大使館 公使参事官 ユーリ・ルトヴィノフ様

東日本大震災による私の東京での体験と、ウクライナと日本の福島、チェルノブイリの枠組みでの協力関係についてお話しさせていただきたいと思います。

東日本大震災で自分が体験したことを日本人の皆さまに公にするのは初めてです。私の人生の中で2011年の3月11日から18日までの一週間の日々が精神的に、体力的に、そして仕事による重い責任の圧力の影響で一番複雑な日々でした。

2011年3月11日、当時のウクライナ大使は帰国していたので、私は臨時大使代理として任務を果たし続けました。その日ホテルオークラの地下2階で行われた催しに参加していた時に地震が起きました。今までに経験した地震とは違い、とても不安でした。あの時の大きなシャンデリアの震え、揺れ、演説者の急な無言、外交団のメンバーの会場を素早く出る様子が今でも目に浮かびます。振動がもっと強くなり、自分もエスカレーターへ急いだ瞬間、周りを見ると皆が会場から走り出していました。その時に初めて本当に心配になって地下2階からなるべく早く外へ出なければと思って、思い切り走りました。ホテルの玄関を出ると、停まっている車が振動で前後に動いていました。近くにある高層ビルが揺れていて、とても驚きました。地震が収まった後、皆無事で車をホテルへ取りに行きました。外へ出てからまた余震が始まって、道がとても混雑していて、携帯電話も使えない状態だったので、今回の地震は最も恐ろしいものであると認識しました。まずは大使館員と家族の安否を確認しなければなりませんでした。皆が麻布、六本木地域に住んでいたにも関わらず、安否を確認するのはとても時間が掛かりました。

その後、外交官が仕事に戻って、翌日土曜日の朝5時まで状況を見守ってウクライナ外務省へ定期的に報告を送ったり、ウクライナ人の安否を尋ねたりしました。日本にいるウクライナ人と連絡を取れない親戚がウクライナから電話をしたり、メールを書いたり、数多くの問い合わせの対応を外交官はしなければなりませんでした。特に宮城県、岩手県、福島県にいるウクライナ人から相談を受けたり、相談したり、慰めたり、親戚と現地のウクライナ人との懸け橋になって毎日仕事をしました。

津波によって福島第一原発の原子炉の冷却システムが不能になって爆発が相次いで発生して、放射線の漏れが検出されてから大使館の業務時間は毎日およそ20時間になりました。ほとんど毎日ウクライナの政府高官と、日本の状況とウクライナ人の安否について話をし、大使館は一日で4・5回レポートを書いて送りました。福島第一原発事故によって東北に住んでいるウクライナ人の避難に関する依頼が急速に増えてきたからです。ウクライナ政府は支援物資を運搬した帰りの飛行機にウクライナ人を乗せて避難することに決定しました。ウクライナ人は特にチェルノブイリの悲劇の体験を持ち、大変心配したからです。原発事故と放射能の漏れの話題がウクライナ人にとってはとてもセンシティブだったからです。3月17日と25日にチャーター機で300人余りのウクライナ人、主に女性、妊婦と子供が避難されました。

あの時に外国人がどんどん日本を離れていました。さらにある大使館が閉鎖されたり、関西へ業務を移したり、人数を減らしたりしていて、私の日本人の友人、仕事の仲間、知り合いは、私に実際にどういう状況なのかとよく聞いてきました。私は皆に「チェルノブイリ原発事故が起こったウクライナの大使館は通常通り機能していると、どこへも逃げません。ですから大丈夫です。危険はありません。」と、同じ言葉を繰り返し伝えました。その言葉が皆を安心させた言葉だったと信じています。あの時パニックムードにならないように、落ち着くように助言しました。

また、当時の日本人の真摯な行動に感動しました。東京都内の食料品、水、ガソリンの不足という困難を皆で冷静に乗り越えて頑張りました。被災地の皆様がお互いに助け合い、連携し、緊張感が高い中で精神の安定を見せました。緊急事態の中で日本人は人間の一番大事な美徳を表しました。それは礼儀正しい人間性の見本だと思います。

2011年8月大使と一緒に福島市と飯館村へ行って福島知事と飯舘村の村長にお会いして、放射線量計を渡しました。日本の皆さまの為に2か月をかけて、ウクライナの工場で放射線量計が生産されていました。2012年4月原発事故後協力条約が日本とウクライナの間に結ばれました。世界では前例の無い条約です。その条約の枠組みで、両国の原発事故後協力合同委員会会合が4回行われました。福島とチェルノブイリから学んだ教訓も含まれた、両国間の科学技術協力について具体的には農林政策、環境、特に放射性物質の状況について意見交換が行われました。

ウクライナの最高会議議長が大震災の丁度1年後の3月に来日しました。その時に福島第一原発を訪れました。世界のリーダーの中で最初の訪問でした。視察中に、ある場所で「バスを降りたら40秒で1年間の放射線量を受ける」と言われたそうです。みんなが乗ったバスは福島第一原発の周りを一周しました。その上、議長が3月11日に名取市を訪問し、日本人の皆さまと一緒に追悼行事に参加しました。そして、津波で家がひとつも残っていない地域を訪れました。そこは1年前には賑やかで、たくさんの家族が住んでいました。でも2012年3月11日にはひとつも家はありませんでした。とても悲しかったです。

ウクライナから3年間で25余りの代表団が日本に訪れて、チェルノブイリの経験を伝えて、日本人にこの悲劇をなるべく早く乗り越えられるように、一生懸命にお手伝いをにさせていただきました。

私は日本人の勇気、日本人の行動にとても感動して、今でもそれを思い出して涙が出るような気持ちがいっぱいです。是非これからも日本とウクライナの友好関係が活発に発展するように期待して、私も努力したいと思います。



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