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国際ロータリー第2750地区 東京六本木ロータリー・クラブ The Rotary Club of Tokyo Roppongi

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卓話

2017年7月

卓話『習近平政権と日中関係』平成29年7月31日

矢板 明夫様

産経新聞外信部次長 矢板 明夫様

まず自分の経歴を少しお話ししたいと思います。残留孤児の二世として中国の天津に産まれまして、15歳まで中国の現地の学校にいまして、普通の中国人と同じ教室で同じ教育を受けていました。その時毎日共産党は素晴らしい、共産党に感謝しなければならないという教育を受けて育ったのですが、家族で日本に帰って来てまず感動したのは、日本はなんて良い国なのだという事です。街も綺麗ですし、人々もやさしいし、警察は人を殴らないし、市役所の窓口に行っても賄賂を要求してこない。

中学3年の時に読んだ本で、中国の哲学者で老子が書く政治家というのが3種類ありまして、三流の政治家というのは国民に恐れられて、恐怖政治をやって国を維持している。今の北朝鮮がまさにそうです。二流の政治家というのは、国民に感謝される。あの人達のおかげで私たちはこうやって生きている、生活できるのだと、これは所詮二流の政治家だと。一流の政治家というのは国民に馬鹿にされる。あいつら何もしないと。ただ上に行くだけで何もしない。私たちは自分で頑張って、自分の生活をやっているのだ、みたいな事を国民が言っているのが一流の政治家なのです。そう考えると日本の政治家は超一流だと思いまして、メディアに毎日批判されてこんなに良い国が出来ていると。

私は中学3年の時に政治家になろうと思いまして、大学を経て松下政経塾というところに行き、政治家を目指した時期がありました。90年代の日本新党ブームの時、政経塾の先輩が次々と国会議員になっていくので、選挙を手伝う事も沢山ありまして、この人たちは何も勉強していないな、ということに気づきました。私は秘書のように候補者と一緒に動くのですが、候補者が朝、時間が無いので、私たちが隣に来て新聞を広げて、日経新聞とかの見出しだけを読み上げるのです。それを候補者が歯を磨きながら聞いている。それで駅前に行ってマイクを持ったら、今日の日経新聞にこんな事が載っています、とあたかも全部知っているような事を言っているのですね。

こういう形で政治家になって良いのかなと思いまして、国会で質問するその大体のきっかけは新聞を見てである、問題提起は新聞であると気づき、新聞記者になろうと思って縁があって産経新聞に入りました。さいたま総局という地方記者をやり、2007年から約10年間中国北京で中国特派員をやりました。産経新聞は中国政府に非常に厳しい、批判する記事を書くものですから、中国政府の逆鱗に触れて制裁を受け新しいビザを出さないという事がありました。新聞社の任期は大体3年から4年で交代しなくてはならないのですが、新しく来る人のビザがずっと審査中という形で出ない。今居る人が帰れない、という状況が一種の制裁なのです。私が北京に赴任した時に産経新聞の北京支局に記者が5人いたのでが、定年退職や、自分の都合で辞めた人がいて、最後の3年間2人だけだったのです。最後3年間記事を書くと当局に呼ばれ、ずっと戦いながらやってきたのですが、今年は党大会があって、中国当局はこの矢板という記者をずっと中国に置くと、党大会も悪口を書くんじゃないかと思って、党大会の直前に私の後任のビザが出て、10年ぶりに日本に帰って来ました。今は日本からもう一回中国を見て、またいろんな形、見えないものがよく見えます。

中国メディアと日本メディアというのは同じ事をやっていても、実は全然違う仕事なのです。私たちはより大きなニュース、社会的影響の大きいニュースを大きく伝えるというのが仕事なのですけれども、中国は基本的に明るいニュース、前向きな話、あと政治指導者を中心に出すニュースが多いのです。日本の新聞の常識があって、新聞の一面に安倍首相の写真が載っている場合、中の政治面でなるべく安倍首相の写真を載せないようにします。中国人民日報では、間違い探しみたいに習近平とアフリカの指導者たちが一人ずつ握手をしている写真を沢山載せていて、こういう風に新聞を作れれば楽だなと思うのです。もう一つ不思議な事に気づきます。習近平の身長が178㎝前後と言われていますが、新聞を見ていると習近平がすべてのアフリカの指導者より背が高い、中国のメディアは中国の指導者を大きく見せるというのが一つの特徴なのです。2013年に習近平がアメリカを訪問して、オバマと散歩するのですが、オバマ大統領の身長は185cm、習近平より7㎝大きいから並ぶとオバマが大きい写真になります。中国のメディアになると、何となく習近平が大きいという事になるのです。今のトランプ大統領も188㎝で習近平より10㎝も上なのですけれども、中国側が配信するニュースは常に習近平の方を大きく見せている。中国の指導者は背が低いのにどうやって高く見せるかと言うと、撮影する角度と遠近法を使いながら、ここはシャッターチャンスだと思ったらちょっと背伸びするらしいです。そうやって新聞が出来る訳です。こうやって国民に対して自分たちの国の指導者は凄いのだと、大きいのだという事を見せるのです。

逆のケースもあります。2013年に失脚した重慶の党委書記 薄熙来は身長186cmで非常に立派な格好良い政治家ですが、失脚して無期懲役という刑を受けたの時の写真では、わざわざ身長2mの警察官を2人連れて来て薄熙来を小さく見せるというのが、中国のメディアの常識であります。

中国で取材する10年間はいろいろ苦労もあり、電話、メールは全て中国当局から見られている訳です。昔はよく尾行とかあったのですが、最近は携帯電話で場所をすぐ特定できる。だから私たちは地方に取材する時には携帯電話をホテルの部屋に置いて行くと中国当局はこの人は部屋の中で原稿でも書いているのかなと思ってしまうので、意外と簡単に取材出来たりするのですよね。

あとメモリーカードですが、カメラを持って少数民族地域や暴動などの危ない現場に行くとすぐに警察に捕まるのです。中国当局は拘束ではなく保護したという事を言うのですが、そこでカメラの中にあるメモリーカードの写真を全部消される訳です。これに対抗するために、メモリーカードをいっぱい持って行って、何枚か写真を撮るとどこかに隠すのです。電信柱の下とか、郵便ポストの下にガムテープで貼り付けたりして。捕まってもカメラの中には写真はあまり残っていないので、消されてもあまり痛くない。そのあと戻って少しずつ回収していくという事です。回収しに行くと無くなっているという事もよくあるのですけれど。

あと、地方都市などに行くと警察官が空港で飛行機を降りた瞬間に待っていて、ホテルにチェックインすると、1階のロビーで6人くらい警察官が待っている。どこに行っても必ず尾行され、取材相手と全然話しが出来ないという状況になります。大体ホテルの2階に必ずレストランがあって、レストランの厨房の後ろに出口があるので、レストランに入って料理を注文して、食事をする振りをして、そしてトイレを探す振りをしてレストランの厨房の後ろの出口、裏口から出る。そうやっていろんな方法で中国当局と対抗している訳です。

あとは私が10年北京にいて、一番思い出になったのは、2008年5月6日から日本に胡錦濤が訪日した時に同行したのですが、彼はまったく一言もメディアの前で喋らない。テレビ局は非常に困る訳です。胡錦濤が帰国後特集番組を作らなければならないのですが、胡錦濤の肉声が一言も入っていないというのは非常にまずいことなのです。私は中国語が出来るので代表質問で何か聞き出せと言われ、胡錦濤と唐招提寺の住職さん、通訳さんの三人で歩いて来た数メートル前に行って、そこで突然大きな声の中国語で「胡主席今回の訪日はどうですか」と聞いたのです。胡錦濤はびっくりして私の顔を見て、多分5秒か10秒ぐらい沈黙した後に突然「私は今あなたの質問に答えることは出来ません。なぜなら私はこの人と喋っているのだから」と訳が分からない事を言って行ってしまった。そのあとテレビ局の連中は、肉声は撮れたけれどこれでは使えないと、皆に申し訳ないと思ったのですが、そこでひとつ思ったのは、中国の指導者というのは全くアドリブが利かないのです。日本やアメリカの政治家というのは目の前で何を訊かれてもうまい切り返しというか、何か中身のある事を言うのが当たり前なのです。胡錦濤は如何にいつも原稿しか読んでいない、全く政治家としてのトレーニングを受けていないなと思ったのです。胡錦濤だけではなく、習近平もそうだし、これからの中国の指導者もおそらく皆そうだなというのが一つの特徴であります。

その後の事なのですが、奈良県唐招提寺に行ったときに奈良県が出した記者証が5月10日発行ですが、その2日後に四川大地震が起きたのです。私は北京に戻ったら直ぐ四川に行けと会社の指示がり、翌日に四川大地震の現場に入ったのです。あの地震で約10万人の死者、行方不明者が出た大惨事なのですが、当然メディアは絶対入れない訳です。外国メディアだけではなく、新華社、人民日報も全部軍が仕切っていて現場に近づく事が出来ないのですけれども、私が現場に行った時に偶々鞄の中にその記者証が入っていたので、それを武装警察に見せると、上に胡錦濤の名前が入っていて私の写真が載っている。軍がびっくりして、敬礼されてどうぞと言われ、私だけがスイスイとあちこちに行けたという事がありました。中国人というのは権威に弱いですね。これはよく読めば奈良県庁が発行しているものです。しかも5月10日限定ですからね。でもやっぱり中国の軍人でも胡錦濤と見た瞬間に、全ての許可証に意味があると思ってしまう。そのあと胡錦濤政権は2012年まで続くのですが、この許可証をあちこちで活用させていただいた訳であります。

今は中国でどういう事が起きているかと言うと、習近平と李克強というのは非常に仲が悪いのです。習近平は共産党の主導、国有企業を大事にしたいと、権力集中をやる考え方で、李克強は規制緩和をやりたいという方向です。習近平と李克強は非常に対立する状況にあります。今年3月の全人代で、李克強が政府活動報告を読んでいる間、習近平はむっとした表情です。後ろにいる中国政治局員全員が拍手しているのですが習近平だけ動かない、李克強の演説には拍手したくないというのがあるのです。日本メディアで中国は習近平の権力集中が進んでいて殆ど牛耳っているという話になっているのですが、実はそうではなくて、もし習近平が本当に凄く力を持っていたとすれば、習近平が拍手をしなければ、全員拍手をしないだろうし、その前に李克強はもう失脚していると思うのです。それが出来ないというのは、中国の権力闘争がまだまだ続いているという裏付けであります。

河北省のリゾート地に北戴河というところがあって、共産党の長老と現役指導者たちが集まって重要な人事と政策を決める北戴河会議が8月初めからスタートするのですが、習近平2期目政権の人事は全てそこで決まるのです。この北戴河会議というのは、ひたすら食事するのです。政治局常務委員それぞれに別荘があるのです。江沢民、胡錦濤も別荘があり、毎晩誰か各派閥の家で宴会を開くのです。その宴会に別の派閥の若手を何人か呼んで、そこでひたすら食事し、ひとつの意見を出し、若手にあなたの派閥にこの話を持って行けと言って、別の派閥も同じ様にやっている訳だからどんどん話が固まっていき、最後に大体こういう感じでいくと皆納得した時に初めて習近平、胡錦濤、江沢民といった大物が会い、そこで合意するのです。

今年の権力闘争は非常に激化していて、この前重慶のトップの孫政才が失脚したのですが、この北戴河では李克強を辞任させる話しや、習近平の側近の王岐山の続投が話し合われています。王岐山は今年69歳になったのですが、習近平は続投させたい。最大の理由は、習近平は今年64歳で5年後 69歳になり、中国では政治家は68歳で定年になるのですが、王岐山を続投させれば自分は5年後引退しいなで3期目、4期目を狙える訳です。習近平は政治的な粛清をしているので、辞めると自分も粛清さるかもしれないから、党主席を復活というのを今回の北戴河会議で話し合われています。

中国の外交は今非常に最悪の状況でして、まさに四面楚歌の状況です。日本や東南アジアとは非常に仲が悪い、台湾、香港、北朝鮮というかつての中国の影響下にあった国々や地域は皆独立の動きが始まっているという事です。

習近平の外交、日本に関しての大きな特徴は反日です。2012年に習近平政権がスタートし、私の北京の最後の5年間は習近平政権の反日をどうやって報道するのかが仕事の中心で、2012年、2013年から徹底的に尖閣問題を話題にして、日本叩きがあり、それが1年ぐらい続くとだんだん飽きてくる。翌年に靖国神社参拝問題、さらに2014年に中国が主張している30万人南京市民が殺されたという南京事件、南京大虐殺という話があったのですけれども、この年に国家追悼日という日を作って全国民を挙げて南京事件を記念するのです。不思議なのは南京事件とされる日は1937年であり、10年目も20年目も50年目も記念しなかったのですがいきなり77年目から国を挙げて記念するというのはやはり非常に違和感があるのです。習近平外交が非常に孤立している象徴ではあるのですが、2015年に抗日戦争勝利70周年軍事パレードをやって、関係国はほとんど参加していないのです。アメリカ、日本、東南アジアの国々はほとんど来ていなくて、来たのがベネズエラ、スーダン、アルゼンチンなど抗日戦争に全く関係のない国々が参加している。中国がお金を配っているという話しです。2016年に漁船進出と旧日本軍の労働者の強制連行問題を話題にし、今年になって急に日本人スパイを挙げているのです。ついこの間4人釈放されたのですが、この間捕まった温泉業者は6人いて誰も中国語が出来ないのです。温泉を探す機材を持って、中国の郊外をうろうろしているところをスパイとして拘束されたと。今時こんなスパイはあり得ないです。だけどそうやって明らかに反日の為にいろんなキャンペーンを展開しているのです。

北京ダックは、一匹のアヒルを無駄なく全部食べられるというのが北京ダックの食べ方なのですが、中国共産党も日本に対してまるで北京ダックのように利用している。例えば日中戦争が1937年から1945年にあり、日中戦争を使って国民党の裏に隠れていた共産党が大きくなった。日中戦争がなければ、共産党は絶対政権がとれなかったと毛沢東が認めているのです。日本を利用してまず共産党が政権を取り、1978年から鄧小平が日本に来て頭を下げて日本の財界から資金と技術を受け入れて、中国の改革開放と経済成長が出来たという事で、日本をまた使っている訳です。3回目は今の習近平時代になって今度は日本を叩く事によって国内の愛国教育をやっているのです。だからまるで日本は北京ダックの様に丸ごと全部利用されているというのが今の日中関係であります。

2014年11月に安倍さんが中国を訪問した時、初めて日中首脳会談が出来たのです。それまでに2年間中国は尖閣問題、靖国問題で絶対に首脳会談に応じないという条件をつけましたが、安倍さんは2年間ゼロ回答をやってきた。最後中国が折れて仕方なく安倍さんが会った。習近平にとって非常に悔しいのです。私は当時産経新聞に書いたのですが、この日本の対中外交は小野妹子以来の勝利だと。安倍さんの対中外交は非常に頑張っているのではないかと思います。

最近日中関係は回復基調にあって、特に李克強が訪日することもあるかもしれないのですが、その時は中国のペースに乗せられないように、日本はしっかりと主張すべきだと思います。中国は、日本との関係を修復したいのですけれども、日本はしっかり対応する必要があります。今は対中外交を展開するチャンスでありますし、これからは中国に対して人権の尊重と民主主義の価値観を積極的に発信していくべきだと思います。そして中国と交渉するなかで、いわゆる冤罪事件のスパイとされる8人の日本人の無事帰国を最優先課題としてやって行きたいと思います。

ありがとうございました。

卓話『日動画廊と藤田嗣治』平成29年7月24日

長谷川 德七様

株式会社日動画廊 代表取締役社長 長谷川 德七様

私ども日動画廊はおかげさまで今年90周年を迎えることが出来ました。丁度父が画廊を始めましたのが昭和3年でございますが、その当時洋画というのはほとんど知られておらず、洋画を持ち込むと「油は間に合ってるよ」と言うようなお話を伺うようでした。

しかし父が非常に真面目に売り歩いたようで、その当時に田園調布が非常に文化都市であったという事から、田園調布一帯を歩いてそしてその中で粟津清亮さんとういう日本動産火災の社長と昵懇になりました。社長がビルを銀座の5丁目にお建てになった、今の日動画廊がある場所です。昭和6年にビルが建ちましたが、その時の地主さんが大層偉い方で銀座は商売の街、商店の街であるので、一階に商店を持ってこないと土地を売らないという条件がついたようなんです。その条件を当てはめる為に粟津先生は考えられて、一番画商さんが綺麗だし文化的だから丁度知り合いだった長谷川がいいだろうという事で、その場所の1階をお貸しいただきました。(日本動産)火災さんの入口というのは本当に小さな入口があるだけで、1階のほとんど全部を私どもがお借りしたような訳でございます。

その当時画商というものがほとんど無かった時代ですし、資生堂さんが画廊をもっている、あるいは三越さんが美術部を持っている、という様な事だったので、路面店の画廊は私どもただ一つという訳でございました。

そして藤田(嗣治)の話になるのですが、当時昭和7年から昭和8年にかけてその頃にブラジルから南米、アメリカを経て日本に帰って来る、なんでその時に藤田が日本に来たかというとマドレーヌの前のユキさんが非常に浪費家だったんですね。

藤田のことを少し話させて頂きますと、1913年にパリに渡ります。お父様が大変偉い方で陸軍の軍医総監をされていました。軍医総監というのは位としては中将ぐらいに値します。藤田のお父様の前の軍医総監というのが森鴎外で、明治天皇にも大変可愛がられたという経緯がありまして、軍医総監というものは大変な権限を持っておりました。その息子で本来ならば医者になるところだったのですけれども、どうしても絵が好きだと言う事で父親の許しを得て芸大に入り、そしてパリに渡る。

1917年ぐらいまでは藤田もパリで鳴かず飛ばずだったのですが、素朴派の画家アンリ・ルソーに興味を持ってルソーの絵の真似事を始め、その頃からだんだんと芽が出てきまして、1918年にはモディリアーニ、キスリングらと一緒に制作をする。作品もモディリアーニ調なんですね。水彩で描いた。モディリアーニを皆さまご存じだと思いますけれども、非常に特色のある首の長い婦人像を描く作家です。後から君代夫人に言わせると、モディリアーニが藤田の真似をしたのだという様な事を盛んに言っておられますが、どちらがどうなんだというのは分かりません。

藤田は1920年になると今度は乳白色で絹キャンバスの上に、非常に真っ白で、透明な、これは非常に秘密で未だに何で基をやられたか分からないんですけれども、中にはパウダーを使ったんだという人もいますけれども、はっきり分からない、それで基を作って炭の細い筆で裸婦を描く。これでパリ画壇の寵児になるんですね。フランスでサロンドートンヌの会員になる、また勲章も貰う等33、34歳でそういう働きをしました。

その当時フェルナンド・バレエと言う非常にやり手の、藤田を持ち上げ、藤田を偉くしたと言っても過言ではない女性がいました。藤田もなかなか浮気性で日本に登美子さんという女性がいたのですが、パリに渡って直ぐ離婚してしまいまして、そしてフェルナンド・バレエと結婚して成功するのですが長くは続かず、非常に肌が白くて綺麗だったユキという方と一緒になりますが、ユキさんが非常に浪費家だったんですね。

非常に稼いだことは稼いだんですけれども、1929年になってパリからの税金が藤田にかかってくるんですね。お前はこれだけ稼いだんだから税金払えと。使っちゃって藤田は何もない。これはいけないと言うので、藤田は薩摩治郎八という当時日本からパリに来ていた大富豪、パリに日本の学生会館を作った方ですが、その方に壁画を描いてくれと頼まれて、お金も無いししょうがないと描いたんですけれども、これはあまりにも筋骨逞しい肉体的な労働者を描いたものであまり気に入られなかった。これはダメだというので、今度は長崎の出島の絵を描いたりしました。また、今でも残っているのですけれどもアメリカ大使館、日本大使館その次ぐらいのところサントノレにある退役軍人のクラブがあるんです。そこに藤田が大きな日本画を描くんです。藤田が描いたのかどうか分からないような、ところがやっぱり猫がいると、藤田だとわかるようなものを短期間で描き上げて稼いだんですね。そのお金を持ってブラジルに向かって、ブラジルでも展覧会をする。それで尚且つその勢いで日本にやって来る。

その当時フランスも戦争の匂いが非常に強まっていまして、これはフランスにはいられないと、日本に長く居なくちゃならんというような事を考えたのでしょう。昭和8年に藤田が日本に帰ってきて、その時に新聞に載る。その新聞を父が見ていて、ロイド眼鏡におかっぱ頭、非常に藤田スタイルというか、これを一目みれば藤田と分かる。その写真を見たそのあとで、藤田がたまたま日動画廊にやって来る。それで父は此れ幸いと、なんとか先生うちで展覧会を開けないだろうかとお願いします。そうすると藤田も結局日本に落ち着くには、どこかきちんとした画廊で展覧会をしなきゃいかんと考えていたのでしょう。二つ返事で承諾を得ました。それが藤田と日動画廊の出会いの始まりでございました。それから日動画廊で戦後昭和24年に藤田がアメリカに発つまで、十数回展覧会をさせて頂きました。

藤田は当時パリで非常に売れっ子で、また、日本の作家達も彼を慕っておりました。戦争が非常に激しくなってくると、日本の作家がパリから日本に帰って来る。そのパリから帰ってきた日本の作家に、藤田は日動画廊を紹介してくれた。それが海老原喜之助ですとか、その当時のパリで非常に活躍していた作家達。そういった人たちが日動画廊を大変支えてくれたという巡り合わせになりました。

そして藤田は昭和9年にうちで第1回の個展を致します。その時に藤田が今までのフランスでの展覧会のやり方、招待状の書き方、レセプションのやり方、全部父に教えてくれました。父は素人画商でしたから、何も知らなかった。そういうフランス流を全部教えてくれた。その第1回の展覧会は大変賑やかで、日動画廊の前が外車で埋め尽くされて、大公使館の車がずらっと並んだという語り草が出来て、藤田も麗々しく大使の奥様に跪いて手に接吻するというような非常に仰々しい振る舞いをなさった。

大変評判になりますとそこに、秋田から出てきた大富豪平野政吉さんという大地主がいらっしゃって、藤田の絵を大変気に入られました。父からもだいぶ買われて、その当時現金を着物にドーンと入れて現金交渉なんです。夜中まで(買い)叩かれて父も閉口して降参しましたが、それでもかなり絵を買って頂きました。

そしてすっかり藤田を気に入って秋田に呼ばれて、そして秋田を藤田も非常に気に入られて、秋田の行事を描かれました。これは大きな絵で、是非とも機会があればご覧頂きたい。秋田県立美術館に今でも掛かっております。縦3.65メートル、横20.5メートル、行事の冬から始まって、夏が来て、また夏から冬になるという絵ですけれども、これを大体2週間、15日間という大変なスピードで描き上げた。しかし見ていて、いつから冬から夏になっていくのか、夏から冬になっていくのか分からないような描き方、非常に上手いですね。

それ以外にも藤田の美術館を秋田に作ってやるという事になりまして、設計まで藤田がするんですね。それが出来たら大変素晴らしかったと思うのですけど、残念な事にそれは建たなかった。戦争が激しくなってしまい、鉄骨が非常に要る建物だったので、そのようなものはとても無理だということで建てなかった。しかし南米からの大変な作品、40号50号の大作が秋田には今でもございます。そこの美術館に行くと今も見られますので、是非一度藤田に関心があれば行って来られると面白いと思います。

藤田は日本に帰ってくるときに浪費家のユキは捨てて、マドレーヌという新しい女性を連れて日本に来るんですね。日本に来て生活しているのですけれども、その内にまたもや女性が好きになりまして、新橋の料亭のお運びさんだった水戸出身の堀内君代さんという方に惚れ込んで、彼女を神田の2号さん長屋に入れてしまったんですね。だけどこれがばれない訳はなく、やっぱりマドレーヌにばれてしまい、マドレーヌは怒ってパリに帰ってしまうのですね。ところがそれから1年ぐらいで藤田恋しさに日本に戻って来るのですけれども、その時には既に麻薬に侵されていたようでした。また、帰ってこられても君代さんがいる訳ですよ。君代はお妾長屋から自宅に入れてしまっていましたから。そうすると鉢合わせする訳ですね。やっぱり君代は面白くないし、藤田と喧嘩になる。年中うちの父も母も仲裁に呼び出されていました。しかしそうこうしているうちにマドレーヌがある朝起きると…。これはいろんな説があるので、オフレコなんですけれども、私が父から聞いた話という事で失礼しまして、池のほとりでマドレーヌが死んでいた。これは病気じゃないかと、麻薬中毒じゃないかというような事も言われましたけれども、そこで亡くなってしまった。しかしその時お父様の意向か、新聞には小さくしか載らなかった。一切この件に関しては誰も何も触れずに終わりになった。その後藤田は君代と結婚しまして、最後パリにまで行くんですね。

そして終戦になったときに一部の作家達は藤田は戦犯だ。あれだけ戦争画を描いたじゃないかと。確かに沢山描いています。しかし藤田の描いた絵というのは、決して戦争を鼓舞するような絵ではないです。今でも近代美術館行くとご覧になれますけれど、これは戦争の悲惨さ虚しさというものを克明に描いているのですね。そして進駐軍も非常に戦争画に関しては寛大でして、その国の戦争画を描くのは絵描きとしての使命である。どこの国でもやっている。そんな事を咎める必要はない。これは芸術である。という事で藤田は戦犯にもならなかった。しかし一部の人たちは盛んにそれを言った、という事もありまして嫌気がさした。藤田は新しい政権になって、マドレーヌの死というのも抱えておりまして、一刻も早くパリに戻りたかった。しかしパリは連合軍に配慮して直ぐにビザを出さなかった。ところがアメリカは将校やなんかがみんな藤田が大好きで藤田の絵を買って集めていたり、コレクションも今も残っているものもあります。そんな事で、藤田はニューヨークのブルックリン美術学校の招聘ということでビザが下りまして、昭和24年にさっさとアメリカに渡ります。それで後から君代を呼び寄せて、尚且つ翌年昭和25年にはパリに入る。

これは私見として聞いて頂きたいのですけれども、藤田は君代と結婚して大失敗だった。それまでは藤田は戦前美しい女性のヌードをたくさん描いた。乳白色で描いて、あれだけフランスで寵児になった。しかし君代はもの凄いヤキモチ焼きで、藤田の戦前の作品に対しては、いくら良い作品であっても偽物だと言いだすんですよね。もう話にならないのです。日本とフランスで藤田の死後、大回顧展をやろうじゃないかという話が持ち上がった時も、最初は君代さんも良い事だと認めていたのですけれども、いざ作品の選定に当たってポンピドゥーと近代美術館で選んだ3分の2は戦前の作品だったのです。それを見たら嫌だ、止めたと言い出して、結局藤田は大回顧展を両方の国で出来ず仕舞いになってしまったというような逸話がございます。

君代がヤキモチを焼く為に、藤田は戦前は女性関係も非常に華やかであったけれども、戦後はパリの村の静かなところで全然他とは交流せずに過ごすようになった。描くものも、婦人像は一切駄目。かわいい女の子だけ。かわいい女の子を描いている分には別段なんともない。ただ藤田の描くかわいい子供たちというのは、全部藤田の空想の中の子供たちであって、実在の子供たちではないのです。どっちかと言うと、大人を描く場合はほとんど君代の肖像画に近いものになってしまっている。そういった事で私は戦後も美しい婦人像を描いていたら、藤田はもっともっと世界的に賞賛された画家になったんじゃないかと思います。

例えば、この間香港でオークションがございまして、サザビーズのオークションに100号の藤田の絵が出ました。その100号の絵のモチーフが私が35、6年ぐらい前に福岡の市美術館に売った絵と同じなんですね。全く同じ構図で、ただ猫のいる場所だけが違った。私はその絵を4,500万円で売っているんですね。サザビーズの落札の予想価格は2億~3億円。2億がせいぜいで3億はとても行くまいと、皆さん下馬評で言っていたのですが、なんと6億円の値が付いたのです。そのぐらい乳白色の藤田の絵は世界的に評価が高いのです。ここのところ出てくる藤田の絵は値段が無茶苦茶に上がっています。それに釣られてかわいこちゃんの絵も値段が上がっているという事なんですけどね。君代さんは失敗だったなと、もっともっと藤田を世界的にしてあげたかったと、本当に残念に思っております。

藤田の晩年の仕事としてチャペルを作っております。そのチャペルが非常に素晴らしいものなので、チャンスがございましたら是非行って来られると良いと思います。これに対しても奥さんは、藤田はあのチャペルを作らされたので、天井に上がってずっとトイレに行けなかった。それで膀胱がんが出来て死んだんだという事を言っていました。最初はそのチャペルに奥様と両方遺体を葬ることになっていたのですが、一度は葬ったのですが、裁判をやって取り出してしまったのです。それで自分の田舎に葬ったのですが30年も経って、自分が亡くなる近くになってからやっと融和して、自分もやっぱりそのチャペルに眠りたいと思ったのでしょう、そこに遺体を戻して結局2人ともそこで眠るという事になりました。

藤田と日動画廊という事で話させて頂きました。

ありがとうございました。



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