つなげよう、つながろう、新しいやりかたで (Connect and Be Connected in Innovative Manners)

国際ロータリー第2750地区 東京六本木ロータリー・クラブ The Rotary Club of Tokyo Roppongi

文字サイズ変更



卓話

2016年11月

卓話『夢は叶う』平成28年11月28日

根木 慎志様

2000年シドニーパラリンピック
男子車いすバスケットボール日本代表キャプテン 根木 慎志様

僕は25年前、18歳で車椅子に乗るようになり、最初にしたことが人の前で話すことでした。中学の恩師から障害者の生活の困難さをみんなに話すように言われ、嫌だったけど、多くの人に知ってもらうことが大切だというので、その中学校で講演しました。すると中には涙ぐみながら話を聞いてくれる生徒がいて、根木さん、大変だけど頑張ってねって言われました。でも僕の中には悶々としたものがありました。実はその頃、僕は車椅子バスケットボールに出会って、スポーツができることが楽しくて仕方なかったからです。でも講演で僕が喋るのは辛い話ばかり。それである時、先生に頼んで車椅子バスケットボールの様子をみんなに見てもらうことにしました。シュートが入るとみんなが歓声を上げて、根木さん凄いって言ってくれます。それまでかわいそうやねと言われていたのが変わったんです。パラリンピックの話をしたら僕も出たいって子どもたちが言うんです。僕のように怪我をしたいというのではなく、夢に向かって頑張る僕の姿がいいって思ってくれたわけです。根木さん頑張ってとも言われます。頑張ってという言葉は一緒でも意味は全く違います。今までは、辛さを乗り越えて頑張ってね。今度は、根木さん夢に向かって頑張ってねという意味。これが車椅子バスケ体験学習を僕がやるきっかけになり、みんなの応援もあってパラリンピックに行き、またロータリークラブの皆さんと出会ってWE ARE ONEというプロジェクトになっています。

体験会では最初に僕が走り回ってシュートを入れます。それでみんなに素晴らしさを感じてもらうんですけど、その後の話をする時間が大切だと思っています。まず僕には障害があると思いますかと子供たちに訊きます。先生なんか固まってどう返事したらいいか分からないっていう状態です。そこで僕は障害の意味を説明します。障害というのは実は困ることで、それは時と場合による。例えば僕がエレベーターがなくて困っても、みんなが車椅子を押したり引いたりして運んでくれれば、僕はどこへでも動くことができる。今日も僕がここでお話をするのにスロープを設けていただいたように、環境を整えてくださることで僕は力を活かせる。障害というのは、目が見えない、足が動かない、聞こえないということではなくて、ほとんど社会や環境が作り出しているもの。だからみんなの力でなくすことができる。

パラリンピアーは障害で勝負はしません。それぞれに持っているものを最大限活かしているのです。それを見た人が感動し、勇気、元気をもらう。パラリンピックは、世界の人たちが来てその違いを認め、誰もが素敵に輝く瞬間を見せる場だと思います。でもそれは大会だけで終わったら駄目ですね。皆さんの活動と同じで、誰もが素敵に輝ける社会を目指して、自分たちができることをどう支援し進めていくかっていうことだと思うんです。

ありがとうございました。

会員卓話『3+7の物語』平成28年11月14日

佐久間 曻二様

ぴあ㈱ 代表取締役 佐久間 曻二様

私は昭和31年、当時の松下電器に入社し、27歳のときに松下幸之助との出会いがございました。幸之助さんは社長、私は入社5年目の平社員で調査関係をしていたんですが、社長から、ある一流会社のユニークな販売制度を松下でもできないかと御下問がございました。私が、やるべきではないという報告書を提出したところ、社長が、自分がやりたいというのにやめろと言っている奴がいるということで、社長の前に呼び出されたのです。私は、やはりやるべきではないと申し上げました。お話の最後に、君、しかしあの会社は一流会社やろう。それがなんであかんねんとおっしゃる。私は、それをやることは一流会社に相応しくないからおやめになった方がいいとお話をしました。そうしたら幸之助さんが、わかった、やめようと決断されたので、こっちがびっくりしました。でもそれは幸之助さん独特の勘なんですね。たとえ平社員の言うことでも納得したら即断される。その印象が決定的で、師に仰ぐという思いを強くしました。

平成元年4月、私は幸之助さんの訃報を聞き、取るものも取りあえず大阪へ参りました。お別れをして御本宅を出たとき、記者から幸之助さんの最も印象に残る思い出を訊かれ、咄嗟にハンブルグでの出来事をお話ししました。

昭和44年、私はハンブルグの駐在員、幸之助さんは会長で、フィリップス社を訪問後ハンブルグに寄られ、そこにヨーロッパの駐在員13名が集められました。幸之助さんは最初に、君たち、済まないなと言われました。パナソニックの商品は負けてるというのです。あと3年僕にくれたまえ。3年で勝つ商品を作る。ついては君たちはその間に強い販売網を作ってほしいとおっしゃる。私たちが、負けてる商品で強い販売網なんて作れるだろうかと思っていると、会長は、君たちには松下電器の経営理念を売ってほしい。それを武器に販売網を作ってほしいというのです。私どもは形も値段もない経営理念をどうやって売るんだろうと悩みました。幸之助さんは、代理店というお客様に我社の商品を選んでいただくときに大切なのは、私達はこういう考え方で商売をしますという経営理念やないか。それをお話して納得いただく。そこで初めてビジネスが始まる。そこからが君らの出番や。価格政策や宣伝やサービス戦略を絵にかいて、経営理念を見える化してほしい。同時に君ら自身がまず経営理念を自分化してほしいということでした。

7年後、私が日本に帰ることになりスイスの代理店に挨拶に伺ったとき、代理店の方から、今後もパナソニック以外やる気はないというありがたいお話をいただきました。理由は幸之助さんの考え方、つまり経営理念に惚れたことと、君らが一所懸命幸之助さんの指導を活かそうと取り組んだ結果、ナショナルブランドがスイスでトップになったことでした。私は幸之助さんの教えが間違ってなかったという思いを土産に日本に帰りました。このハンブルグでいただいた言葉が、私のパナソニック時代を支えた理念だったと思います。

ありがとうございました。



▲ PAGE TOP