つなげよう、つながろう、新しいやりかたで (Connect and Be Connected in Innovative Manners)

国際ロータリー第2750地区 東京六本木ロータリー・クラブ The Rotary Club of Tokyo Roppongi

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卓話

2015年9月

卓話 『現場で出くわしたノーベル賞 ―あなたが受賞者に選ばれたら―』平成27年9月28日

内田富夫氏

元駐スウェーデン大使
内田 富夫様

2000年から04年までスウェーデン大使として勤務した間、3年続けて日本人のノーベル賞受賞者が出ました。2000年が化学賞の白川英樹先生、01年が野依良治先生、02年が物理学賞の小柴昌俊先生と化学賞の田中耕一さんです。

19世紀後半、ダイナマイトの発明で巨万の富を得たスウェーデンのアルフレッド・ノーベルは、自分の遺産の大部分を寄付して5つの分野で功績をあげ人類に貢献した人に賞をやってくれという遺言を残しました。選考は物理学と化学はスウェーデン王立アカデミー、医学生理学はスウェーデンのカロリンスカ研究所、文学はスウェーデンアカデミー、平和はノルウェーの国会が指名する委員会が行うというものです。

今日は皆さんに身近に感じていただくために、あなたが受賞者に選ばれたらという仮定で話をしてみます。10月5日の週、夕方、突然皆さんのお宅に国際電話がかかってきます。これがノーベル賞の通知です。各ノーベル委員会がそれぞれ電話するんですね。メールで済ませないのは本人と話をしてちゃんと受けますという言葉を取らないと危ないからなんです。もし電話がかかってきたら、いや私はなんて言わないで一発で受諾された方がよろしいと思います。すると彼らはノーベル財団に報告して、その日のうちに発表されます。次に12月5日ごろから約1週間行われる受賞の行事に出席していただくため、スカンジナビア・エアラインのチケットが送られてきます。お泊りはスウェーデンの場合、グランドホテルという一番いいホテル。ご本人は燕尾服が要ります。最初の公式行事はいわゆるノーベルレクチャーで、評価されて大変ありがたいということを1時間ぐらいお話しいただきます。これは英語でやらないといけません。10日には授賞式がストックホルムであり、そこで王様から大きな18金のメダルと賞状と賞金の証書を授与されます。そのあと8時頃から12時頃まで1400人ほどの大ディナー大会で、この辺になるともう体力勝負です。そのあとのダンスパーティは明け方の3時頃までやるようです。翌日、今度は王様が王宮に呼んでくださいます。これも1000人を超えるディナーです。11日の昼間、受賞者はノーベル財団に行きお金をもらう手続きをします。これはご本人がしなければいけません。長い間ノーベル賞は一賞当り1千万クローナでしたが、3年前から800万クローナになりました。今の為替相場で1億2千万円弱です。1901年にノーベル個人の遺産から作られた500億円ぐらいの基本財産を運用して、毎年賞金や経費で15億円ぐらいかかるところを回しているわけですね。3%で回してやっと15億円ですから、一所懸命やっているということです。

1949年の湯川秀樹先生受賞以来2000年までの50年で受賞者は8人でしたが、14年までの14年間で14人受けていますから毎年1人受賞ということで、大変な記録だと思います。今年もどなたか受賞があればと思っています。

ありがとうございました。

卓話 『江戸のくらし』平成27年9月14日

松平 定知氏

元NHKアナウンサー
松平 定知様

一口で言えば江戸時代は裕福でした。落語に長屋の貧乏話が出てきますけど、全体的には裕福な生活で、それゆえにあの絢爛たる町人文化が生まれたのではないかと思います。今日は江戸時代を庶民の感覚で斬って参ります。

まず時間のお話です。江戸時代は今の時間の2時間単位で一つの時を決めました。23時から午前1時までを子(ね)の刻と言っておりました。その次が丑(うし)の刻で午前2時とか3時ですね。子の刻から亥(い)の刻まで24時間を干支で12等分したんです。しかも数字がありまして、子の刻を九つ、そのあと八つ、七つ、六つ、五つ、四つと一日に2回、回るのです。一つ、二つ、三つという時の数え方はありません。これは陰陽道に関係しているという人がいます。陽が奇数,陰が偶数。一桁の最高(強)の数字は9で、9つを一日の始まりの午前0時にした。午前と午後があるから数字は9から始まって4まで。3と2と1はない、というわけです。「丑みつ刻」ってのがあるじゃあないかと、おっしゃいましょうが、あれは、丑の刻が「満ちた時間‥午前2時を言うので「丑三ツ刻」ではありません。そうした時を江戸の市民は何で知ったかというと鐘です。江戸市内に鐘をつく9つの場所がありました。浅草の浅草寺や上野の寛永寺です。芭蕉の句に「花の雲 鐘は上野か浅草か」があります。時(とき)を織り込んだいろいろな言葉がございます。例えば「お江戸日本橋七つ立ち」。午前4時ごろですから相当朝早く発ったんですね。おやつなんていうのは昼の八つ時に出たということで2時とか3時ぐらい。あの鐘が鳴るとそろそろ寺子屋に行く時間だとか、高張提灯に灯りを灯さなきゃあ、とかね。

次はお金です。簡単に言うと1両が金四分、一分が金四朱でした。四進法です。銀ですと50匁くらい。1両は今の値段でどれぐらいかというと、江戸時代は長いし、景気の変動はあるしということでコレッ!というのはないのですが、まあ、10万円くらいと思っていいのではないか。一両は一石で十斗で百升。米価が一升50文から100文。今、仮に50文として、落語の時そばでは、かけそばが16文。今の値段で350円くらいですから1文20円ぐらい。となると、100升(一両)は10万円になります。。千両箱は1億です。その1億を盗み出そうと密談をする悪代官や越後屋は、相当ワルだったのです。千両箱の重さは1両が15グラムと計算して15キロ、鼠小僧が千両箱を片手に屋根から屋根をひらりひらりというのは相当体力がいる仕事だったと思います。

物価は、江戸中期で、髪結床が30文で600円ぐらい。銭湯は8文160円ぐらい。旅籠は200文4,000円ぐらい。ただ、歌舞伎の上席は3,500文ですから7万円ほど。。これは相当高かった。

冒頭に私、江戸時代は豊かだったと言いましたけど、例えば大工さんの手間賃、落語の大工調べという作品では日10匁(銀)とあるんです。一両が銀50匁として計算すると、10万円換算で2万円です。これは結構な値段で、当時の家賃が月6朱で、、37500円ぐらいですから、大工で2日稼ぐとひと月の家賃が出ちゃう。実働月20日として月収40万。年収500万弱。一介の大工さんが、こうです。そういう豊かな生活環境が心の余裕を呼び、しかも戦争がないので生活をいかにエンジョイするかにベクトルが行く。町人文化が発展するわけです。その原動力は社会全体の裕福さであったと思っております。何せ、制限時間が30分ということでいろいろと言葉足らずの段はお許し下さい。時間が参りました。

失礼いたしました。

卓話 『私が映画に出会ったとき』平成27年9月7日

篠田 正浩氏

映画監督
篠田 正浩様

私は映画監督になるとは考えず、能、歌舞伎を学びたくて早稲田大学の文学部演劇科に入りました。日本人はなぜ死を美しく描くのかが気になっていたからです。近松門左衛門の心中もので紙屋治兵衛とお女郎の小春が心中することになり、旅支度で廓を抜け出したのに花道にはなんと紋付羽織で登場する。私は岐阜の各務原飛行場から特攻の飛行機が飛んでいくときに目にしたパイロットの白いマフラーと同じだと思いました。日本には死ぬことが道徳的な最高の行為だと思う文化があるんじゃないか。中世の演劇史を勉強すれば日本人の精神的な拠点を見出すことができるのではないかと思ったんです。

もう一つの影響がありました。私は大学では陸上競技をやっていました。コーチは中村清さんで、私は彼の下で箱根駅伝の選手をやらされました。補欠4人のうちの1人、13番目の選手です。1950年の正月、19歳の私はなぜか2区を走っていました。中村さんがサイドカーに乗りストップウォッチを持って私を急きたてます。その年、早稲田は準優勝でした。私はどうして13番目の私が2区だったのか中村さんに訊きました。あぁ10番目の選手と篠田君はタイムは1分と変わらないし、10番目の選手はベテランで絶対ペースを崩さない。1番から10番までベテランで並べると早稲田は7位か8位だ。これを打破するのは新人しかできないから13番の未知数に賭けたんだ。お前は練習タイムより3分も早かったと。私はこのとき大きな教訓を得たんです。新しい仕事は必ず新人とやろうと。私が映画監督になったとき、シナリオに無名の新人の寺山修司を起用しました。私は彼の詩を助監督のときに読んで、凄い奴だなと思ったんです。

マッチ擦るつかの間 海に霧深し

身捨つるほどの祖国はありや

祖国という言葉はもう我々には死語になっていたのに、青森の高校生が、短歌がもう一度息を吹き返す力を持っていることを証明してくれたのです。

私が映画に目覚めたのは意外なところからです。大学の授業でキンゼイレポートを教わりました。インディアナ大学のキンゼイ博士がアメリカ人の性生活を調査し1948年に発表したんです。レポートに示されたのは、性の自由は教育の高さと懐の豊かさが影響するということ。アメリカは戦争中、男性が戦争に行ったので女性の社会進出が進んだのです。私はその頃、中村清の叱声を浴びながら新宿の街を走っていました。アメリカは日本を占領するのにアーミーだけではなくシビリアンがたくさんいて、大学から街へ走り出ると彼らのフォードとすれ違うんです。運転する男の横に女の人がいてマニキュアを塗っている。私は走っていますから景色は全部モーションピクチャーです。キンゼイレポートによってもたらされたアメリカの新しい文明・文化の本質が、文章に書いたらものすごい量になるのに一瞬で見える。1/8秒で物の姿、形が見える。私はこれは映画だと思いました。私は箱根駅伝のランナーになったことで映画監督への扉を開けることができたんです。



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