「楽しく一緒に気分よく」

国際ロータリー第2750地区 東京六本木ロータリー・クラブ The Rotary Club of Tokyo Roppongi

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卓話

2015年6月

卓話 『少子高齢化時代のアンチエイジングプロダクト』平成27年6月22日

坂井 直樹様

株式会社ウォーターデザイン代表取締役/現在成蹊大学教授・もと慶應義塾大学教授
坂井 直樹様

 僕の経歴のスタートは京都芸大で、ドロップアウトしてアメリカに行き、タトゥーTシャツを製造するファクトリーを作りました。その原資は後に西武デパートの社長になった僕の友人が僕の作品のTシャツを1枚1万円で200枚買ってくれてできたものです。48年前、今の2000万円ぐらいの金が19歳の学生にポンと飛び込んだ。それを持ってサンフランシスコへ行ったわけです。

 僕はデザインで世の中を変えることができると思っていたのですが、実際にそれを実現したのは日産のBe‐1が初めてです。そのあとカメラをやり、パオ、フィガロ、ラシーンと自分の作った車を出せたのはラッキーでした。そして2001年、知人と一緒に今でいうビッグデータの分析を行う会社を作りました。ですからデザインの稼業ですけど、いろんなことをやっています。そのあとauの外部デザインディレクター、慶応の湘南藤沢キャンパス、京都造形、慶応大学と経て、今は成蹊大学の教授の3年目ですが、今年で辞めて自分の仕事がしたいと思っています。

 デザインって何かと聞かれると僕も答えにくいです。デザインにはまだ100年しか歴史がないので、何千年という歴史を持つ文学や哲学や数学と違って、まだアカデミックって呼べないのかも知れません。簡単にデザインの歴史を話すと、まずきっかけは産業革命です。機械で工業化して世界中どこでもいくつでも同じものを作れます。そして機械化のためにはデザインという技術が必要でした。1919年、ドイツにデザインの学校ができました。これがデザインの始まりだと僕は思いますが、なぜかナチスによって迫害され、その主要メンバーが米国に亡命し、彼らはデザインは経営資源だと考えました。これは僕の答えでもあります。ヨーロッパに残ったメンバーはデザインはブランドの価値創造と継続のために重要だと考えました。ルイ・ヴィトンやプラダやエルメスを何百年も維持するために必要だというわけです。

 アンチエイジングプロダクトについていうと、僕は杖のイノベーションを考えました。誰もが歳をとっても若い人と同じように行動したいと思う筈ですね。そのハンディをデジタルテクノロジーでカバーできるんじゃないか。もう一つは携帯電話を耳の悪い方が外を歩く際の補助具として使えるようにしようというもの。次は車椅子で、若者が嫉妬するようなカッコいいものを作ってやろうと思っています。

 僕らの世代、心の中では歳をとったという考えはないです。僕は、学校でも会社でも若い人しかいないので、鏡さえ見なければ20代のつもりでいられます。確かに肉体的な問題はありますが、それをデザインで解決すれば若者と一緒に活動できるんじゃないか。老人とハンディキャップを持つ人を合わせると市場としては非常に規模がでかい。今までイノベーションのなかった世界を新しいデジタルテクノロジーとIT技術で突破してやろうと頑張っています。

 ありがとうございました。

卓話 『ホテルジャーナリスト40年のエピソード』平成27年6月15日

村上 実様

(株)オータパブリケイションズ 専務取締役
村上 実様

 オータパブリケーションズは日本で唯一のホテル系ジャーナリズムで、私はそこで40年間ホテルジャーナリストとしてやってきました。

 ロンドンのホテル、ザ・コノートに誰もが尊敬するGMでMrザードという方がいました。ザ・コノートはトラディショナル、コンサバティブで、絶対ジャケット・アンド・タイ。それが90年代の終わりぐらいからアメリカ人が来るようになって、朝の散歩のときのジャージ姿で朝食にいらっしゃるもんですから段々ドレスコードが壊れていく。そんなときMrザードは、私は守ると、きっぱり対応したんです。私は歴史や伝統を守るためにドレスコードを言うんじゃない。ホテルは本来、お互いのリスペクトの上に成り立つんだということです。

 1980年代のニース、カンヌ、モナコ辺りのホテルには日本人から見たらとんでもないルールがありました。予約は会社の秘書が電話しても駄目。本人がフランス語で電話しない限り泊まれません。本人の横に通訳や秘書を置いておくこと自体がほかのお客様にご迷惑をかけることになる。フランスを理解しフランス語をしゃべり、ワインを理解し料理にリスペクトを持つお客様以外は泊まっちゃだめということです。

 私は来年、今の仕事にピリオドを打ってホテルの格付けをするインスペクター、調査員をやる予定です。大体ホテルで50年間総支配人やった方がそういう仕事を持つようになります。この方々の調査が俗に言う3つ星などの格付けに繋がっていく。日本にはこの格付けが今までありませんでした。日本は今、年間2000万人に迫ろうかという海外からのお客様が来る時代を迎えていますが、帝国ホテルやオークラがどのカテゴリーでどういうサービススタンダードを持ち、どうブランディングしているかというのは残念ながらウェブサイトを見ても分かりません。それで格付けをやろうということになりました。

 ギブ・キッズ・ザ・ワールドは不治の病にかかってしまったお子さんをもつ御両親の支援のための団体で、そのお子さんを預かり、御両親に1週間ぐらい好きなところで過ごしてもらおうというものです。その間、その子を預かるためにディズニーが登場します。パパとママはこれから旅行に行くので、その間ミッキーとミニーがあなたのお世話をするよという仕組みを作ったわけですね。このホスピタリティと、今、日本で言われているサービスとの違いは、あまりにも温度差があるように感じます。

 未来の日本のホテル、レストラン業界は何を目指せばいいのか。サービスというのは大変難しい仕事で、やはり教育が必要です。人にやさしさを施すということは、ハードウェア、ソフトウェア、ヒューマンウェアのスキルとは別に考えないと本当の意味での満足感、ホテルに対する尊敬が生まれないんじゃないかと危惧しています。

 てんでんばらばらのお話で申しわけありませんが、ご理解をいただければと思います。

 ありがとうございました。

卓話 『風立ちぬ』平成27年6月8日

陳瑶(チン ヨウ)様

米山奨学生 陳 瑶(チン ヨウ)様

 皆さん、こんにちは。私は現在東京外国語大学博士課程の2年生です。2008年に来日して大阪で1年間日本語を学び、四日市大学で4年間勉強して、去年、東京外国語大学の博士課程に入りました。

 私の生まれは中国の西安です。西安は日本でいえば東京に対する京都のような感じです。空海が留学した都市で、唐の時代は長安と呼ばれていました。

 私がなぜ日本を留学先に選んだのか、よく皆さんに聞かれます。いつもは適当に答えていますが、今日は時間をいただいていますので、その理由を紹介させていただきます。理由の1つ目は「体験」です。中学2年のとき都市から随分離れた僻地にボランティアに行きました。そこであまりの貧富の差を目の当たりにして、同じ中国なのにとショックを受けました。日本は戦後わずかな間に先進国の仲間に入り、しかも貧富の差が少ないと評価されていますので、なぜそれができたのか知りたいと思いました。2つ目はガム事件です。高校生の時、僕は知り合った日本人の留学生と西安にショッピングに行きました。中国人は噛んだガムはそのまま捨てますが、その日本人はガムを紙で包んで、それを捨てる分別のゴミ箱を探しました。そしてゴミ箱がないことを知ると、それを家に持ち帰ったそうです。その行動にはびっくりしました。日本のガムには捨てるための紙がついていますね。中国のガムには付いていません。日本人の環境問題に対する行動、モノの作り方に感動しました。3つ目の理由は単純で、私は日本のアニメが大好きだからです。

 大阪で勉強したあとの半年間、私は日本を一周しました。それまでは中国に帰ろうかなと思っていたのですが、父から勧められたのと、日本に来てから日本に対する考え方が変わったからです。そして日本で続けて勉強したいと思って四日市大学に行きました。その2年目のときにロータリーの奨学金をいただくようになりました。大学では留学生会をつくりました。そこはアジアの学生が多くて、当時は239名いました。私がみんなをまとめて社会活動をしたり、またロータリーの紹介をいただいて企業の見学をさせてもらいました。東京外国語大学に挑戦したのは、当時、私は国連に行きたかったんですが、私のカウンセラーが、もし国連に行きたいなら日本でトップの東京外国語大学に行くべきだと教えてくれたからです。

 私には母国の貧富の格差を是正するという夢があります。今やっている研究は、世界の最貧困層の人たちの生活をビジネスで豊かにさせようということです。日本には2010年、BOPビジネス支援センターが作られましたが、中国ではその研究はまだ少ししかないので、私もそれを続けて研究したいと思っています。

 最後に、現在中国では国際ロータリーのことを知らない人が沢山います。中国には今クラブが一つありますけど、将来は中国にもロータリーが普及するように頑張っていきたいと考えています。

 ありがとうございました。

会員卓話 『私の業界』平成27年6月1日

松木隆央会員

松木隆央会員

 現在の日本では、一年間に約100万人の方が亡くなります。

 ガンで約30万人、心臓病(主に心筋梗塞)、脳血管障害(脳梗塞・脳出血)で約30万人が亡くなります。

 死因の約6割を、これらの病気で占めています。

 ガンを始めとする生活習慣病は、進行してから自覚症状がでてきます。

 いかに、早期発見し、早期治療するかが、重要な事になります。

 それには、体調が良い、よく体が動く、食欲もある等に関係なく、最低でも年に一回の、しっかり体のチェックをする、良質な人間ドックを受診し、以上の有無を確認してください。

 人間ドックを受診して、発見されるガンの80%~90%は、早期ガンで、完治が期待できます。

 また、心筋梗塞等の引き金になる、肥満、高血圧、糖尿病、脂質異常等も、数値で判かり、もし以上ならば、早期に治療すれば、トラブルを起こさなくなります。

 ぜひ皆様の健康長寿のために、最低でも、年一回の人間ドックを受診してください。

会員卓話 『私の履歴書』平成27年6月1日

髙栁公康会員

髙栁公康会員

 私の今までの人生は、その時には「うわあ、まいったな…」と思うようなことが、後でふり返ってみると「自分の成長」につながっていることが多いのです。「チャンスはピンチの顔をしてやってくる」といいますが、まさにその連続です。

 まずは、中・高時代は勉強しないでスキー部で競技スキーばかりして、高校二年の時には東京都の代表選手になりましたが、高校三年生の11月終わりに悪ふざけが過ぎて大学の推薦入学が取り消しになってしまい、急遽大学受験をする事になりました。しかし、何も考えずにエスカレーターで進学するより、自分の意思で進路を決めることになって、結果的には精神的に自立するきっかけになったと思います。

 次に、就職活動では、マーケティングや企画の仕事がしたかったので、広告代理店に入社したかったのですが、どこにも受からなかった為、就職活動をメーカーに切り替えたのです。ところが業界を切り替えたからと言って、いきなり内定を頂ける訳ではないので、就職活動そのものについて考え直した結果、「就職活動とは自分と言う商品を売り込む場である」と定義し、自分と言う商品の再確認をし、相手のニーズをより深く把握する為にOB訪問など行動力を駆使し、自分という商品の良さとニーズをマッチングさせた結果を面接・書類でしっかりと表現する活動を実施しました。その結果、味の素ゼネラルフーヅ(AGF)という会社に就職を決めたのです。広告業界で内定頂けなかった事により、社会に出る為の第一歩としての準備ができ、自分なりに成長できたと思います。

 今度は入社してからの出来事ですが、研修後営業に配属され、小さなスーパーなど販売店を100店程担当しました。メーカーの営業は何も出来ない新人でも、ブランド力と商社さんの力で予算の80%位は実績が出来てしまうのです。しかも、販売店に行ってもほとんど相手にされず、やる気が失せて退職まで考えました。ところがそんな頃50歳代の契約社員の方が退職する事になり、その方の担当店約100店を引き継ぐとそのお店はほとんど予算を100%達成しているので、何とかしなければ80%レベルに実績が下がってしまうと困り果てました。その契約社員の方は担当店から非常に評判が良かったので、理由を聞いてみると週に一度位お店に行ったからだと言う事がわかり、私もとにかく週に一度お店に行こうと決めたのですが、合計200店を5日間で回るには1日40店を回るルートを構築しなければならず、お店の方がいる朝8時位から夜9時位まで営業車で走り回りました。しかし、いくら週に一回お店に行ってもいきなりセールストークが出来るようになる訳でもなく、相変わらずお店の担当者には相手にされなかったのです。ところが、毎日沢山のお店を回り続けていて気になった事がありました。同じ様な規模の店で、自社商品の売上が月に20ケースのお店と100ケース程お店があり、そのエリアの平均数値を見ると50ケース位である事が判明し、その話を20ケースのお店の店長にしてみると、周りのお店がそんなに売れているならチラシ訴求や試飲をしてみようという事になり、この時に初めてエリアマーケティングという意味を理解し、自分の存在意義が達成率を80%から100%以上にするエリアマーケティングの実践だと理解したのです。その後は、営業数値100%達成を目標として営業活動を続け、その結果3年半後に念願だったマーケティング部に異動になりました。

 ところが、ここでもはじめは落ちこぼれで…、AGFのマーケティング部は資料が英語ですし、学生時代ちゃんと勉強をしていなかったので、マーケティングの基礎が身についていない、パソコンもうまく使えない…。上司から「お前は何もできないヤツだな…」とあきれられる始末。自費で英会話学校に通い、マーケティングに必要なことを猛勉強して何とか追いつきましたが、多忙で身体がボロボロになり、一年間で八キロ痩せてしまいました。
企画やマーケティングの仕事は、自分が企画した商品を形にしていくためには、製造から流通まで多くの人に協力してもらう必要があります。より多くの人に協力してもらってこそ大きな仕事ができるので、多くの現場に足を運ぶこと、読み手に合わせた表現で文章を書くこと、そして何より「強い思いと思いやり」が大切なことを学びました。つまずいた分だけ人の気持ちを思いやることができるようになったと思います。

 その後、私は新しいマーケットに新しいものを生み出すこと目的とした新規事業開発部門に異動し、コンビニ向けの新商品として若者向けの本格的なミルクコーヒーを企画しました。AGFは「冷蔵物流がないから供給できない」という既成概念にとらわれて、コンビニ向け飲料を開発しようとしなかったのですが、コンビニ自身が持つ物流網を活用すれば供給可能であることがわかったのです。この商品はその後も順調に売り上げを伸ばし、三年後には百億の売上規模にまで成長し、私の退職後にチルド事業部ができたのです。

 新しいことを生み出す楽しさを経験したことにより、ベンチャービジネスに興味を持ち、縁があって、現在の会社、ケー・デー・シーに転職する事となりました。
ケー・デー・シーには設立2年目に入社したのですが、入社した時点で売上は約1億、累損や借入金などいわゆる借金が4億円もある会社で、まさにマイナスからのスタートで、IT企業という畑違いの企業経営でしたので、すべてがゼロから勉強し、チャレンジし、修正し、という繰り返しで、前職のマーケティングや企画の知識・経験をフル活用し、自社の強みや市場の状況を分析し、官公庁マーケットに特化して元請けとなる戦略で、実績を積み、図面管理システムを展開するだけの企業から、官公庁におけるソリューションサービス企業として、システム、情報、人材をサービス提供する企業へと発展させることが出来ました。現在では、売上約20億、無借金経営になっています。

 当社は設立当初から「初めての事なら大手もベンチャーも差がない」「思いと思いやりが人を動かす」という経験を基に、「社員一人一人の成長が組織・会社の成長につながる」という考え方を人材育成の基本理念として若手育成に努めています。
当社では「夢を持って仕事に取り組もう」というスローガンで、上場を目指して経営をしています。



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